電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第3話 怒りの下にあるもの
「あんた、なんでいんの?」
家に帰ると、会社にいるはずの夫がソファーで寝ていた。
お母さんの家で昼寝をさせてもらいすっきりしたはずなのに、ソファに横たわる夫を見かけたとたん、昨日のイライラがよみがえってきた。
「あんたがいるなら、お母さんに子どもの面倒頼まなかったのに!」
こんなこと言うつもりじゃなかった。夫が帰ってきたらごめんねと言うつもりだった。
『疲れてイライラしてるんだ。ごめんね』って。だけど、口から出る悪態を自分でも止めることができなかった。
ふと、台所を見ると冷凍パスタの容器が水にもつけずにシンクに置いてあり、ソースがシンクの底にへばりついていた。
「しかも、これ、ちゃんと洗ってないじゃない!」
夫はなにも言わずに黙っている。ソファーからのっそりと起き上がるとため息をついた。
もう自分でも止めることができなかった。
気がつけば過去の嫌な思い出を夫にぶつけていた。あんなことがあった。こんなこともあった。自分でも止められないほどどんどん出てくる。
無反応な夫を見ていると、なぜか悪態がマグマのように溢れ出してくる。まるで誰かが乗り移ってわたしの口を借りているかのように。
溢れ出てくる悪態をどうしても止めることができなかった。
怒りが頂点に達しようとしていたとき、玄関のチャイムが鳴った。おじいちゃんだった。
「これ、ばあさんに頼まれてよ。アッちゃんに食わせてやれって。ほれ、お昼のおでん」
「ありがとう」
わたしはプリントが取れかけたまだ温かいタッパーを父から受け取った。
「また、いつでもきてくださいな」
お調子者の父はひょうひょうとそう言うと、自転車をこいで家へと帰っていった。
「ちょっと、散歩しようか」
廊下の奥のリビングにいる夫が、小さな声でそう言った。
※前回までの話
第一話 話さないふたり
第二話 おでんと広告業界
◇
お昼を食べソファーに寝転び、またウトウトとしていたが、どうしても仕事が気になってしまいスマホでメールをチェックしてしまった。
件名に「重要」と書かれたメールが、チームの先輩から届いていた。
なんだろうと思って開いてみたら、急に目が覚めた。
それはリストラのメールだった。『社長がチームのすべての人間にリストラを打診しているぞ』と書かれていた。
ここ一年ほど、うちのチームは受注案件が減っており、社長の命令で他のチームの仕事をしていた。
取引先の代理店はうちらをすっ飛ばして、うちらが使っていた工場に直接仕事を発注するようになっていたからだ。
うちらのような中小企業がめんどくさいあれやこれやを調整するために間に入っていたのだけど、コストを抑えるためにここ一年ほどそんな案件が増えていた。
社長もそんな事情をわかった上で別なチームに割り振っていたと思っていたが、どうもリストラの機をうかがっていただけだったようだ。
メールには『売上低下の責任を取って辞めてもらうか、給料を3分の1に減らすか』の二択を迫られていると書かれていた。
急に玄関の鍵がガチャリと音を立て、妻が帰ってきた。
妻は帰ってくるなり、おれを非難し始めた。
おれがいるならお母さんに子どもの相手をさせなかったとか、シンクにパスタの汚れがついているとかなんとか。
リストラのメールが頭から離れなかったおれは、妻の言葉をまともに聞けなかった。
まともに妻の感情を受け取ってしまったら、もう心が壊れそうだった。
おれにできることは貝のように口を閉ざして、自分の心がこれ以上傷つかないように祈ることだけだった。
妻の感情の波が頂点に達しようとしたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。まるで試合終了のゴングのように。
妻はひとしきり俺を睨むと、玄関へと向かって行った。
心から安心したおれは、ソファにゆっくりと腰を戻した。
ソファにもたれ天井を見上げていると、どんどん天井が迫ってくるような気がした。部屋がどんどん狭くなってくる。なんだこれは。
急に家から飛び出したい衝動に駆られ、妻に言った。
「ちょっと、散歩しようか」
◇
うっとうしい厚い雲が空を覆っていた。
双子ベービーカーを押しながら、ぼくらは近所の公園まで二人で歩いた。
ジャリッジャリッと、ベビーカーのタイヤがアスファルトの上の小石を踏みつける音が聞こえる。
タイヤが一回転するたびに、タイヤに挟まった小石がアスファルトの上に叩きつけられる。
そのリズミカルな音に集中していたら、妻が口を開いた。
「昨日のことなんだけど」
妻はポケットに手を突っ込み、うつむきながら話し出した。
「話を聞いて欲しかったの」
「たいした話じゃないんだけど、今日この子たちとなにをしたとか、今日みたいにおじいちゃんがおでん持ってきれくれたとか、そんなどうでもいい話を聞いて欲しかったの」
どうでもいい話がそんなに大事だとは思えなかったけれど、妻の表情は真剣だった。
「そうだったんだね」とぼくは言葉を返した。ここで下手なことを言うと妻の心を傷つけるような予感がしたからだ。
「そうなの!どうでもいい話を聞いて欲しいし、大変だったねって言って欲しいの。お疲れさまって言われるのもいつもアッちゃんばかりだし、あたしも言われたいの。お疲れさまって。大変だったね。寂しかったねって言って欲しいの!」
妻は一気にそこまで言うと、目を細め口を尖らせぼくを見つめている。心配しながらぼくの返事を待つときの彼女の癖だ。
妻がそんなことを考えているなんて思いもしなかった。ぼくのことを恨んでいると思っていたし、会話なんてしたくないのかと思っていた。
とんでもない勘違いをしていたようだった。妻のぼくへの怒りの感情は表層的なものでしかなく、その下には寂しさや不安という感情が潜んでいたんだ。
「そんなことを考えているなんて知らなかったよ」
「わかんないでしょうね」
妻のそっけない返事が気になったが、さっきのような激しい怒りはもう消えているようだった。
「でも、あたしも言わなかったし。いいの」
妻はそう言うと前を向いた。
「これからは言うようにするよ。お疲れさま。大変だったねって」
「寂しかったねも忘れないでね」
「うん。仕事も辞めるし時間ができるから」
妻はリストラの話に驚いていたけど、ぼくは正直なところホッとしていた。
毎日深夜まで働き、週に一度の徹夜があたりまえのこの仕事を続ける限り、まともな家庭は築けないと思っていたから。
転職がうまくいくかどうか不安だったけれど、なんだか解き放たれたような開放感も感じていた。
「あたしが怒っているとき、アッちゃんは黙ってるよね?あれはなにを考えてるの?」
妻に突然そう聞かれ、自分も心の内を話そうと思ったが、思ったように言葉がなかなか出てこなかった。
喉に言葉がつっかかっていて出そうとしても出すことができない。自分でも驚くほど言葉がでなかった。
お腹の底から苦しい感情が込み上げてくる。言葉は出ないのにその苦しい感情は、お腹から胸へ、胸から喉へとゆっくりと昇ってくる。
そして、喉を過ぎたあたりで、なぜかぼくは言葉ではなく、涙を流していた。話そうとしても嗚咽が邪魔をして話せない。
言語化できない苦しみがぼくに巻きつき、ゆっくりと締め付けるような苦しみを与えていた。
(続く)
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最終話:愛情のグラス
※この話はフィクション(小説)です。実在の人物や団体などとは関係ありません。
◇◇◇
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