見出し画像

電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/最終話 愛情のグラス

自分の気持ちを掘り下げるのは、ゴムでできた地面にスコップを突き刺すのに似ている。

力いっぱい掘ろうとしても弾力で跳ね返される。

特に、妻と口論になり黙りこくってしまったときは、自分の心がどんどん硬くなり、その中に何があるのか自分自身ですらよく分からなくなる。

妻に何を言っても否定されるような気がして、自分という人間の存在自体を否定されるような気がして、ぼくは何も言えなくなっていた。

このまま黙ったまま嵐が過ぎるのを待ったほうがいい。気まずいこの空気が過ぎ去るのをただ待てばいい。

きっと、いつもそんなことを考えていたんだと思う。

だけど、それでは前に進まないこともわかっていた。それでも何かを変えようと思わなかったのは怖かったからだ。

自分の本音を伝えることで、自分を否定されることが。

この世でもっとも身近で、もっとも大切な人に否定されることが、怖かったからだ。

「なにを考えているの?」

妻から優しくそう聞かれたとき、ぼくは自分を否定される恐怖に怯えていたことに気がついた。

同時に(妻には話してもいいんだ)という安心感も感じ、その安堵感のためか、予期せぬ涙で目が曇り、何も話すことができないでいた。

※前回までの話
第一話 話さないふたり
第二話 おでんと広告業界
第三話 怒りの下にあるもの

自分を否定されることが怖いということを妻に伝えると、妻は驚いていた。そんなわけないじゃないと。

なぜ、ぼくは否定されることを恐れていたんだろう。

思えば、子どもが生まれてから、ぼくはよく妻から否定されることが増えた気がする。きっと妻本人はそんなつもりはないんだと思う。

ぼくがソフトになりすぎているのかもしれない。妻のちょっとした言葉一つで傷つきやすくなっているだけなのかもしれない。

だけど、突然生まれた双子を中心に、ぼくらはグルグルと回り続けていたんだと思う。

子どもを生かすことにせいいっぱいで、まわりにどう頼ったらいいか分からない手探りの育児のなか、ぼくらはお互いに対する気遣いなんてどこかに置いてきてしまったんだと思う。

(子どもがいるんだから、夫に気なんか使えないわよ)という意見もよくわかる。

でも、(子どもと仕事があるんだから、妻に気なんか使えないよ)という夫の意見について、女性はどう思うだろうか?

しかたないよねと思うだろうか?きっとそんなことはないと思う。大切にしなきゃだめよと思うだろう。

ではなぜ、夫の(妻から大切にされたい)という願望は無視されがちなんだろうか?

男だから?一家でただひとりの働き手だから?男は弱音を吐かないものだから?

「男とはこういうもの」という概念に毒されているのは、なにも男だけではなく、女性もそうなんだと思う。

子どもとの触れ合いによってオキシトシンが限界まで分泌されている妻は、ぼくに対する気遣いなんてする余裕はなかったんだと思う。

妻が毎日をなんとか必死で生きていることは、ぼくでもよくわかっている。日中、子どもの面倒を見ている時に過労で倒れたことも知っている。

だから、ぼくは妻に甘えちゃいけないと思っていた。

妻に弱音を吐いてはいけないと思っていた。

そんなぼくの態度が妻にも伝わり、妻もぼくがまさか(大切に扱われたい)と思っているなんて思いもしなかったんだろう。

どうしたらいいか分からない堂々巡りのなかで、ぼくの心はどんどん固くなり、スコップをいくら突き刺しても、心の地面を掘ることはできなくなっていた。

そんなことをポツポツとぼくは妻に話した。

ソファーの端に座り、クッションをお腹に抱き抱えながら、ぼくはなんとか自分の思いを言葉にして妻に伝えようとした。

話が終わるころ、妻がぼくを抱きしめてくれた。

「嫌なことがあったら言っていいんだからね」

妻はそう言うと、ぼくを抱きしめる腕に力を入れた。

ソファーから落ちそうになりながら、ぼくは体をぎゅっと縮こませ、小さな、だけど確実な安堵感を感じていた。

お互いに抱きしめ合いながら、ぼくらは自分たちの中に小さな力が育っていくのを感じていた。

「夫婦が支え合う」というのは、家事や育児をふたりでやることだけを指しているんじゃない。

ふたりが精神的に支え合うことも指しているんだと思う。

どれだけ家事を分担しようが、どれだけ時短家電を使おうが、ぼくらが精神的に支え合っていなければ、心の泉は乾き切ってしまう。

そんな夫婦生活にいったいどんな意味があるんだろう?

夫婦は愛情のグラスにお互いに水を汲み合うことが大切なんだと思う。

「ご飯にしよう」と妻は言い、お義父さんが持ってきてくれたおでんを電子レンジに入れ、ボタンを押した。

電子レンジの窓がオレンジ色に染まり、ブゥーンという電子音が静かなキッチンに響くなか、妻はぼくに微笑んでくれた。

ぼくもうまく笑えただろうか。


(おわり)

※前回までの話
第一話 話さないふたり
第二話 おでんと広告業界
第三話 怒りの下にあるもの

※この話はフィクション(小説)です。実在の人物や団体などとは関係ありません。

◇◇◇

夫婦関係に関するポッドキャストをやっています。ご夫婦で聴いていただけると、ものすごく嬉しいです。

Spotifyはこちら

Apple Podcastはこちら



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?