電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第1話 話さないふたり
電子レンジで夕飯を温めている夫に殺意が湧いた。
ブゥーンと電子レンジが動き出し、夫が「今日も疲れたわ」と言ったとたん、気がつけば口走っていた。
「なにやってんのよ」
こっちは寝不足でフラフラしているのに、朝から晩まで子どもたちの世話をして、自分のトイレさえ行けなくて膀胱炎になりそうだってのに。
温かい食事なんて一年以上食べてないのに。子どもたちの隙を見て、チョコスティックパンをのどに放り込むことしかできないのに。
そういえば、この人、いつもトイレにスマホを持ち込んでる。一人だけゆっくりトイレに行って、なんでこの人だけ、いつもこの人だけ、ずるい。
「え…? いや、あっためてんだけど」
間抜けな言葉を返してきた夫に、さらに殺意が湧いた。
こっちがどんな思いであんたの帰りを待ってたと思ってんのよ。
もっと早く帰ってきて欲しかったのに。
あんたが帰って来れば楽になれると思ったのに。
子どもたちから解放されると思ってたのに。
こんなしんどい一日が、あんたが帰って来れば終わると思ってたのに。
いろいろ話を聞いてもらいたかったのに。
朝から三つの公園に連れ回されたとか、子どもが公園のすべり台を何回も何回もすべったとか、すべり台の上からハルトが落ちてしまって、たいした高さじゃないからケガはなかったけど、すごく心配した話とか。
そんなことを話したかったのに。
わたしの話を聞いて欲しかったのに。
(大変だったね)って言って欲しかったのに。
あんたに頼りたかったのに。
ほんとは寂しかったのに。
なのに、「今日も疲れたわ」なんて言われたら、なにも言えないじゃない…
「もう、いい!」
そう言うと、わざと大きな音をたて、わたしはリビングを出て子どもたちが眠る寝室に移動した。
スースーと静かな寝息をたてている子どもたちの横顔に顔を近づけると、すこし気持ちが落ち着いてきた。
なんで、あんなことを言ってしまったんだろう。
どうして、素直に気持ちを話せないんだろう。
そう思いながらも、疲れているせいか、沼の底へ沈むようにわたしは眠りの世界へと落ちていった。
◇
転職して10ヶ月が経つけど、まだまだ仕事に慣れない。
というか、こんなに忙しいなんて聞いていなかった。
週に一回は徹夜があるし、21時にオフィスを出ようとすると(もう、帰んの?)という非難めいた視線があちこちから刺さるように飛んでくる。
クライアント絶対主義の業界だから、夜中でも休日でもメールや電話が矢のようにくるし、はっきりいってこの業界でやってけてるやつは頭がおかしいに決まっている。
同僚や取引先の離婚話や不倫話をなんども聞いた。ふつうの家庭を維持しているやつなんてこの業界にいないんじゃないか。
隣の席の上司はあまりに家に帰らないので、子どもが情緒不安定になったと言ってめずらしく22時に帰っていった。
もう、仕事を変えたほうがいいのかもしれない。子どもの面倒を見るどころか、おれが先にどうかしてしまいそうだ。
しかも、給料もたいしてよくないんだから、この先の教育費やらなんやら考えたら絶対転職した方がいいよな。
そんなことが頭の中をグルグルしながら、疲労に満ちた手で電子レンジのボタンを押した。
「今日も疲れたわ」
ふと、そんなことを口にしたとたん、妻から思いもかけない言葉が飛んできた。
「なにやってんのよ」
なにを言われたのかわからなかった。
ただ、電子レンジで夕飯を温めているだけなのに、おれがなにしているか見えなかったのか?
いや、そんなことないだろ。
ソファのはじっこに座っている妻は、じっと俺をにらんでいる。
「え…? いや、あっためてんだけど」
なんて言ったらいいかわからず、そう言葉を返したが、妻の表情は一気に曇った。
怒っているのは間違いない。
間違いなく怒っている。
だけど、なんで電子レンジを使っただけで怒ってるんだ?
戸惑いを感じたが、同時に怒りも湧いてきた。
なんで、家族のためにこんなにがんばっているおれが怒られなきゃいけないんだ?
おれがどれだけ職場で辛い思いをしているかわかってるのか?
もう、気力も体力も限界なんだよ。
誰かにグチを聞いて欲しいのに、同僚にこんな話したってわかってもらえない。
妻は疲れてるから、おれの仕事のストレス話なんて聞きたくないだろう。
というか、自分で選んで転職したんだから、仕事のグチなんてカッコ悪くて妻になんか話せない。
おれだって誰かに話を聞いて欲しいんだ。もう限界だって。仕事も家も、もう限界だって。
こんな仕事、おれには向いてないんだよ。
だけど、妻は聞いてくれないだろう。おれのグチなんか。それに、おれだって恥ずかしくてそんな自分の弱みを妻に見せられやしない。
だけど、ほんとは聞いて欲しいんだ。
おれの惨めでかっこ悪いグチを聞いて、「あんたも大変なんだね」って言って欲しいんだ。
自分でも認められないこの寂しさを、妻にだけはわかって欲しいんだ。
だけど、そんなこと言えない。言えやしない。
あんなに怒っている妻にそんなこと言えない。おれと口を聞きたくもないんだろう。
しばらく会話は控えたほうがいいのもかもしれない。妻が寝た頃に家に帰るようにしたほうがいいのかもしれない…
逃げるように寝室へと妻は消え、すっかり冷めてしまった夕飯だけが取り残された。
(続く)
※続きはこちら。
第二話:おでんと広告業界
※この話はフィクション(小説)です。実在の人物や団体などとは関係ありません。
◇◇◇
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