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結婚の理由、水辺のハムスター回し車。

「なんで、今の旦那さんと結婚したの?」

オフィスからちょっと離れた定食屋で遅いランチを食べながら、ぼくは同期の女の子にそうたずねた。

「稼ぎがいいから、子どもの教育費に困らないなって思って…」

彼女はちょっと恥ずかしそうにそんなことを言った。水が入ったグラスを口元に運びながらぼくを見つめている。

ぼくから非難されるんじゃないかというかすかな恐れが、彼女の瞳からは感じられた。

「そうなんだ。子どもってお金かかるもんね」

ぼくは水を飲みながらそう言うと、彼女の言葉の意味について考えていた。

8歳になる子どもがいる彼女は何年も前から不倫をしている。彼女の不倫話を聞きながら、ぼくはどうしても気になることがあった。

彼女たち夫婦は子どもが生まれてから不仲になったわけではなく、子どもが生まれる前から相性が悪いことに気がついていたそうだ。

さらに言うなら、それに気がついたのは結婚する前からだったそうだ。

それでも、彼女はその男性と結婚した。

「稼ぎがいいから。子どもの教育費に困らないと思ったから」

ぼくには彼の「稼ぎがいい」事実は、彼女にとって単なるオプションだったんじゃないかと思うときがある。それもとっても魅力的なオプション。

そしてそれは、彼の”人としての本質”に思いを馳せることができなくなるほど、魅力的なオプションだったんだろうと思う。

もしかしたら、いまではそのオプションが彼女にとっての”彼の本質”にすり替わってしまっているのかもしれない。”稼ぎがいい”という事実が、彼女にとっての”彼の存在意義”になっているのかもしれない。

「うちの旦那、この会社の人間よりすごいいい給料もらってるんだよね」

彼女は今日も無意識にそんな口癖を口にしながら、同時に不倫相手との相性の良さをぼくに話し続けていた。

「あたし、オタクと結婚してほんとによかったと思ってるんだよね」

初夏の公園。水遊びができるエリアの近くにスノーピークのローチェアを並べて座っている夫婦がいた。

水場で遊んでいる3〜4歳の自分の子どもに「気をつけて」と注意をしながら、その夫婦は会話をしていた。

ちょっと離れたところに座っていたぼくにもその会話が聞こえてきた。

「今の時代ってオタクは稼げるもんね。他の子たちはオタクと結婚ってどうなのって言ってたけど、あたしはよかったと思ってるよ」

夫は妻の言葉にどう返すんだろうと思っていたら、意外にも夫も同じような意見だったようだ。

「そうなんだよね。この業界は稼げるんだよね。〇〇が〜〜、〇〇も〜」

どうも、夫は世界的に有名な外資系IT企業に勤めているらしい。誰もが知っているIT企業の話を声を落としながらしている。

妻はうんうんと聞きながら、「ほんとオタクと結婚してよかったよ」というセリフを何度も会話の中に挟んでいた。

だけどその言葉は、どこか自分自身に言い聞かせているかのようにぼくには聞こえてきた。

このセリフが3回目の繰り返しに入ったとき、夫の口数が減ってきた。

チラッと夫の方を見てみると、彼は居心地の良さそうなローチェアに腰掛けながらも、なぜか落ち着かないようすだった。

銀色に光るタンブラーに注がれた炭酸水らしき飲み物を飲み干しながら、彼は遠くを眺めている。

さっきから彼らは同じ話をループさせている。

「あたしはオタクと結婚してよかった」

「オタクは稼ぎがいいから」

「そうだよ。実際に収入は高いんだよ」

初夏の気持ちがいい風が吹く公園で、涼しげな水辺に座りながら彼らは”オタクの収入の高さ”に関する話をクルクルと回し続けている。

それはまるで、自分たちの結婚の正当性をどこかに見出そうとしているかのようだった。

回し車を走り続けるハムスターのように、彼らの話は少しも前に進まず、どこにもいくことができないでいるかのようだった。

そして彼は、”妻の自分への評価”について、うまく言語化できないかすかな違和感を感じているようだった。

おそらく彼は、妻から「なぜ自分と結婚したのか?」という話を聞いたことがなかったのだろう。

ロマンティックな話は期待していなかっただろうが、それでもひたすら”オタクだから”、”稼ぎがいいから”といった記号でくくられ続けることで違和感に気がついたのかもしれない。

そのとき、ぼくらの視線が一瞬だけ交差した。

彼の目は自信に溢れていたが、同時に助けを求めるような戸惑いもまた、ぼくには感じられた。

彼らが器用に回し続けている”自分たちの結婚の正当性”が、いつか意味を持たない日がやってくるんだろう。

そしてその日は、ふたりが想像できないほど近いのだと思う。

走り出した子どもたちを追いかけて、ぼくはそっとその場をあとにした。




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