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薬の空き瓶、妻のPTSD

「うちの奥さん、俺のこと絶対許さないって言うんですよ」

会社帰り、駅へと向かう途中、たまたま会った後輩からそんなことを言われた。

彼とは以前同じ部署だったんだけど、去年彼は異動になり、今では違うフロアで働いている。

3年ほど前、忘年会の二次会で2人だけで話す機会があり、彼はうまく言っていない夫婦関係について話してくれたことがあった。

「絶対って、すごいね。なにを許したくないんだろうね?」

時刻は17時、ぼくらのようにオフィス街から駅へと向かう人の数はそんなに多くなく、逆に駅方面からオフィスへ向かう人の方が多いくらいだ。

疲れた顔の人々をよけながら、ぼくらは会話を続けた。

「以前もちょっと相談しましたけど、それがなんなのかわかんなかったんですよ。最初は。なんでこんなに攻撃的なんだろうって」

うんうんと頷きながら彼の横顔を見つめた。昔の出来事を思い出すように、彼は目をこらし遠くを見つめている。

「話を聞いてみると、どうもある日、俺が家に帰るのが遅くなった日があって、そのことが原因らしいんですよ。

『早く帰ってこれない?』って連絡がきたんですけど、自分がプレゼンする商談の真っ最中で抜けれなかったんですよね」

当時のことを思い出すように目を細め、彼は言葉を続けた。

「後から話を聞いたら、なんか色々あったみたいで…。

その頃、うちの子たちは1歳と3歳で下の子はまだ保育園行ってなかったんですね。妻はあんまり寝れてなかったみたいで、昼間家で気を失っていたそうなんです。

気がついたら子どもたちが妻の薬の瓶を開けていて、その薬が床中に散らばっていて、上の子がどうやったのか玄関の鍵を開けてしまって、外に出ちゃってたんです。

下の子も家の中にいなかったらしいんですよ」

びっくりしたぼくが子どもたちは大丈夫だった?と聞くと、彼は下を向きながら歩くスピードを緩め始めた。

「えぇ、それが…。近所の人が外にいる子どもを見て通報しちゃったんですよね。下の子はオムツだけ履いていて、上の子は下着と肌着しか着てなかったらしいんです。

それで家に警察が来たんですよ。家の中に薬が散らばっているんで、うちの奥さんのこと怪しい人だと思ったのか、すごく詳しく事情を聞かれたらしいんです」

話の流れに驚いたけれど、まだまだ話し足りなそうな彼はさらに言葉を続けた。

「でも、それを最初に言ってくれなかったんですよ。ただ『早く帰ってきてくれない?』って言われただけじゃ分かんないじゃないですか?

そんなことがあったら、その時にそれを言ってくれよって思うじゃないですか?

それで、そうなる前に連絡をくれとか、本当に困っているならちゃんと言ってくれとか、色々奥さんに言ったんですけど、なに言っても反撃してくるんですよ。

いつも言ってきたって、そう言うんですよ。でも、言ったことないんですよ?『本当に辛いから助けて』なんて、そんな言葉聞いたことないですからね。

それなのに、あいつは『いままでの積み重ねだから』って言うんですよ」

身振り手振りを交えながら彼は自分の気持ちを一気に話すと、気持ちを落ち着かせるかのように黙り込んだ。

渡ろうとした信号が赤に変わり、ぼくらは立ち止まった。4車線の幅の広い道路を車がどんどん走っていく。

彼が束の間の沈黙を破って話し始めた。

「俺もちゃんと謝ったんですよ。なのに全然話を聞いてくれないんですよ。

絶対に許さない、許したくないって言うんですよ」

「もしかしたら、奥さんは許したくても許すことができないのかもしれないね。自分でも」

信号が青に変わり、ぼくは彼に話しかけた。

「許したくても許せないように、奥さんの心が変化しちゃっているのかもね」

「許したくても許せないって…。でも、自分の心じゃないですか?自分の心なのに、なんで自分の思ったようにできないんですか?」

戸惑う彼にぼくはこう続けた。

「ぼくも専門家じゃないから詳しいことはわからないけど、同じような悩みを抱えている人はたくさんいて、その人たちの話を聞いていると、許したくても許せないって気持ちになっちゃってるんじゃないかって思うんだ」

信号を渡り終え、ぼくらはエスカレーターをのぼり、改札へと向かった。

「過去に夫から受けた心の傷がトラウマのようになっていて、夫の言葉を受けつけない。

夫の言葉を受けつけると、自分の心がまだ傷ついてしまう。

だったら夫にはなにも言わない方がいい。

夫を拒絶することで、自分の心の安静をたもっている。

そんな状態なんじゃないのかなって思うんだ」

改札へとゆっくり歩きながら彼はこう言った。

「トラウマって、それって…。俺の言葉とか行動で妻の心に傷を負っていたってことですか?」

ぼくらは改札の前で立ち止まった。人々がICカードの電子音を響かせながら、改札の向こう側へ吸い込まれていく。

「もしかしたらね。本人はそんなことないって思ってるかもだけど。

だけど、絶対に許したくないって人や、そう言われた人たちの話を聞いていると、戦場で大きな心の傷を負った兵士がPTSDになるように、社会から断絶された母親が家庭の中で1人戦ってPTSDになるのは、あり得ない話ではないんじゃないのかなって思うときがあるんだ」

彼は黙ってぼくの顔を見つめている。3秒ほどの沈黙の後、彼はこう言った。

「でも、それって…。自分にはどうにもできないんじゃないですか?そんな大きな心の傷、俺にどうこうできる気がしないですよ…」

ICカードを取り出しながら、ぼくは彼に思っていることを伝えた。

「どうにもできない可能性が高いと思う。でも、それを知ることができれば、君は奥さんに寄り添うことができると思う。

ただ妻が怒りっぽいわけじゃないことを知ったわけだから。

それから、これは心理療法が必要なものだから、臨床心理士と公認心理士の両方の資格を持っている人に助けを求めた方がいいと思うよ。

奥さんをそこに連れていくのは大変だと思うけど。

悪いのは夫だって思っているからね」

黙り込んだ彼とぼくは改札を通り過ぎ、別々のホームへと歩いていった。

彼は一瞬振り向くと「ちょっと、考えてみます」とぼくに告げ、軽く頭を下げ、ホームへと降りる階段をくだっていった。

人の波に隠れて彼の姿が見えなくなるまで、ぼくは彼の後ろ姿を見つめていた。

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