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潮の満ち引きと夫婦関係

「すみません、ちょっとだけこの後お話ししていいですか?」

リモート会議終了間際に彼はそう言った。その声はいつものようにハキハキとしていたけれど、ムリをして元気な仕事用の声を出しているようにも聞こえた。

「お疲れさまですー」と、他の参加者のアイコンが画面からポツポツと消えていき、ぼくと彼の名前が書かれたアイコンだけが取り残される。2秒ほどの沈黙の後、彼は話し始めた。

「すみません、急に…。こないだちょっとだけ話した件なんだけど、夫婦の話。妻がもう恋愛感情なんてないって言ってたやつなんだけど……」

彼とぼくは同い年だけど、中途入社のぼくに気をつかっているのか、彼の言葉にはいつもかすかに敬語が入り混じっている。さっきのハキハキとした仕事用の声とは違って、とても話しにくそうな声だった。

一緒にきついプロジェクトをしてから、彼との心理的距離は少しづつ縮まっていき、今ではたいていのことは話せるようになっていた。

1週間ほど前、オフィスで偶然会ったとき、彼は夫婦関係の悩みを少しだけ話してくれた。その日は取引先との打ち合わせ終わりで、入り組んだ会議室エリアの端っこで、誰かに聞こえないか辺りを見回しながら小声でぼくに話をしてくれた。

彼は30代後半で、子どもが2人いる。妻とは大学の頃に出会い、働き出してから結婚したのだけど、最近妻から「あなたに恋愛感情はもうない」と言われ悩んでいるという。

その時は次の会議もあってあまり話ができず、また時間を取って話そうと約束をしていた。

「あれから状況はやっぱり変わってなくて。妻は別に冷たくなったというわけじゃないんです。ただ、ぼくへの恋愛感情はもうないだけだって言っていて…。嫌いなわけじゃないけど、好きでもないって言っていて……」

こんなことを話してもいいのかなという彼の戸惑いがマイク越しで感じられ、ぼくは「そうなんだね。好きでもないって言われるのは辛いよね」と答えた。

「そうなんだよね。やっぱ嫌だよね、そう言われるのは。でも、嫌いじゃないけど、好きでもないって意味が分からなくて。どういうことなんだろね?」

彼の声がちょっとだけ高くなり、スピードが上がる。分かってくれる人がいる安堵感と、消えない疑問がまだ残っていることが彼の声から伝わってくる。

ぼくは彼にぼく自身の経験を話すことにした。辛かった双子育児が落ち着き始めた頃(夜泣きがなくなった3歳くらいの頃)、ぼくも同じように妻の恋愛感情が無くなったことに戸惑っていたこと。

恋人でもなく、他人でもないこの関係はなんなんだろうと感じていたこと。

そして、色々な本を読む中で、夫婦の恋愛感情はいつか必ず消え去ることを知った話。それが神経伝達物質の影響であるから、誰もがそこから逃れることができない話を彼にした。

「恋愛感情がいつか必ず消えてしまうなら…。それって、どんな夫婦も絶対に夫婦関係が破綻するってことじゃない?」

恐怖心と絶望が、その声にはかすかに滲んでいた。

ぼくは彼を安心させたくて、言葉を続けた。

「そんなことはないよ。夫婦関係が恋愛関係の上に成り立っているのならそうだけど、実際はそうじゃないと思うんだ。

夫婦関係は”愛着関係”の上に成り立っているんだとぼくは思う。

その人のことを信用できる。この人になら何でも話せる。いつでも自分の味方になってくれる。

なんというか、慈しみ合う関係というか…。

恋愛感情があった頃は、お互いに自然に惹かれ合っていたけれど、その効果が切れてしまった今は、ぼくらは努力しないと妻との関係を繋ぎ止められないと思うんだ。

夫婦関係が破綻するのは、その努力をしなかったからだとぼくは思う。

妻なら分かってくれるはず。言わなくても分かってくれるはず。いつまでも自分のことを好きでいてくれるはず。

そんな思い込みって、どうしてもあるじゃない?

その思い込みが夫婦の絆である”愛着関係”を作ることを邪魔して、2人の関係を壊してしまうと思うんだ。

でも、”この人のことを大切にしたい”という思いを妻に持つことができれば、妻に対する行動は自然と変わっていって、”愛着関係”を作ることができるんだ」

また2秒ほどの沈黙がぼくらに訪れた。画面には相変わらずぼくらのアイコンだけが並んでいる。

一気に話し過ぎたかな…。こんな話、誰にでもするものじゃないしなと少し後悔した時、彼の声が聞こえてきた。

「恋愛感情って弱いものなんだね。男女を結びつけているのは恋愛感情だと思っていたけど、夫婦の場合は違うってこと?」

彼の声に雑音がノイズが混ざって聞こえてくる。きっとイヤフォンのケーブルを指でいじっているんだろう。

彼は考えごとがあると周りのものをいじるクセがあって、会議中もよくボールペンのノックをカチカチと何度も押していたのを思い出した。

「そう、ぼくらにとって恋愛感情って、潮が引いた後の海みたいなものなんだと思う。

サーっと潮が引いて、海から海水がなくなるじゃない?すると水があった場所が丸見えになるよね。

ブルーの綺麗な海だと思っていたけど、その底にはヌルヌルしたナマコがいたり、黒々とした岩が横たわっていたり、もしかしたら人間が捨てていったゴミもあるかもしれない」

「うん……」と、スピーカーの向こうから彼の頷く声が聞こえる。

「恋愛感情がなくなった後の夫婦の関係って、それに似ていると思うんだ。

でも、それって元々そこにあったんだよね。恋愛感情のせいで見えてなかっただけで。

忙しい毎日の中で、また潮が満ちてそれらは見えなくなるけれど、また潮が引けば目に見えるようになる。

段々、海底にあるものが気になってきて、別な海に行きたくなるんだけど、どの海に行っても潮が引けば同じものが目に入ってくるんだよね。

だから、ぼくらにできることは、転がっているゴミを片付けて、潮の満ち引きに関係なく、その海をお互いが好きになれるように努力することだと思うんだ。

そうすれば、海底にあるナマコも黒々とした岩に対しても愛着を抱けるようになると思うんだ。

それが”愛着関係”を作ることにつながると思うんだ。」

うんうんと頷きながら彼はこう言った。

「夫婦を結びつけるものは恋愛感情じゃないってことは分かったんだけど、どうやったら愛着関係って作れるんだろう?それがあれば夫婦関係は良くなるんでしょ?」

彼の質問にぼくは答えた。

「まずは、観察だと思う。自分の妻が何を望んでいて何をして欲しいと思っているのか。どういう時に幸せを感じるのか、それを知ることだと思う。そのためにはやっぱり会話が大事なんだと思う。」

残業が多くて夫婦の会話の時間が取れないと言っていた彼に、そんなことをする時間があるのか分からなかったけれど、ぼくは思っていることを全部彼に伝えた。

「そっか……。いや、ありがとう。ちょっと考えて見るよ」

いつでも連絡ちょうだいねとぼくは彼に伝え、ぼくらの通話は終わった。

「通話終了」と書かれた画面を見ながらぼくは、画面の向こうで彼は何を考えているんだろうと思いを馳せていた。

彼が奥さんとの愛着関係を築けるように。

彼ら夫婦が恋愛感情ではなく愛着感情の存在に気がつけるように。

そう祈りながら、ぼくはイヤフォンを耳から外した。

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