衣擦れの音
一枚の反物が彼女の体に吸い付くように巻かれていく。
滑るような衣擦れの音が、ぼくらしかいない呉服売場に静かに響く。
ぼくは彼女の体に大島紬の反物を這わせていた。
大島紬は世界三大織物のひとつであり、普段着の紬(つむぎ)でありながら高額なものは数百万円もする高級品だ。
独特な織り方により他の生地には存在しない張りと軽さがあり、奄美大島の泥で染め上げることで美しく上品な黒い艶をまとっている。
大島紬の魅力は、濡れたような黒艶と生地が擦れた時に生まれる美しい衣擦れの音だ。
独特の張りを持つ大島紬は、優しく巻き取ると「シュッ」と軽い音がし、きつく巻き取ると「キュッ」と密着したような音を立てる。
彼女の体に大島紬の反物を巻き付けながら、ぼくはその度に生まれる独特の反物の音に耳を奪われていた。
着物というのは洋服と違い、あらかじめ縫製がされていない。その人の体型に合わせてひとつひとつ手作りで仕上げるものだ。
だから、普通は試着をすることができない。
だけど、一枚の反物を上手に人の体に巻き付けていけば、まるで仕立てた着物を着ているかのように見せることができる。洋服の試着の代わりだ。
ベテランの販売員はあっという間に一枚の反物をお客さまの体に巻きつけ、お客さまの顔色をうかがいながら、さらに次の反物を巻き付けていく。
立ちっぱなしは疲れるから、せいぜい二、三個が限界だ。その間にお客さまの顔色と会話の中から、好みの柄とお財布事情を読み取っていく。
まだ二年目のぼくから見たら、それはまるでマジックのようだった。
するすると反物を巻き付けられながら、いつの間にかお客さまは「自分が買える金額」の「好みの柄」を聞き出され、気がつけば何回払のローンにするかを真剣に考えている。
ただ、今日の着付けはそんなものとは違っていた。
ぼくが一人店番をしていたところに彼女はフラッとやってきた。事前にメールのやり取りをしていたから、ぼくがひとりだけで店にいることがわかっていたんだと思う。
30代後半の彼女にはもうすぐ20歳になる娘さんがいた。前回の催事では、娘の嫁入り衣装にといくつもの着物を買ってくれた。
3ヶ月前、催事場である京都へ向かう新幹線の中、ぼくらはいつまでも会話が続くことに驚いていた。
心が通い合うような会話、お互いを自然に気にかけ合う気遣い。
それは販売員とお客という心理的な垣根をゆうに飛び越え、ぼくは自分の心の中に彼女が入り込んでしまったことに薄々気がついていた。
そんなことを思い出しながら、しなやかな手触りの大島紬を彼女の後ろから巻き付けていると、彼女のうなじにうっすらと汗が浮かんでいるのが目に入り、ぼくは思わず手を止めた。
ゆっくりと彼女が振り向き、視線が合う。彼女の薄い茶色の瞳がぼくを捉え、動くことができなかった。
永遠とも思えるような一瞬の沈黙の後、ぼくは急いで視線を外した。
仮着付けの練習をしてくれた彼女にお礼を言い、そそくさとぼくは反物を巻き取った。
無心で反物を巻き取りながら、ぼくは超えてはいけない一線がそこにあったことに気がついた。
これは恋なのか、情欲なのか。
22歳のぼくには分からなかったが、いくつもの会話を通してぼくらの心が触れ合っていたことは確かだ。
一緒にいて心地いいと思える相手。もっと一緒にいたいと思える相手。
そんな人は稀だ。
それは、年齢や場所を超えて突然やってくる。
心と心が溶け合うような体験は、ふとした会話の中で生まれる。
知り合いが誰もいない土地で暮らすことの不安感からか、彼女の人間としての、そして女性としての成熟した魅力のためか、それともぼくらの恐ろしいほどの相性の良さのためか。
ぼくはどうしようもなく彼女に惹かれ始めていた。
彼女は「またね」とぼくに告げると、店を後にし、小雨の降る道を静かに歩いて帰っていった。
店内に戻ると、彼女への気持ちに揺れるぼくを、なまめかしい黒艶を帯びた大島紬が衣桁の上から見下ろしていた。
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