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揺れるピアス、”いい奥さん”という幻想。

「いい奥さんでいることに疲れたの」

会議が終わり、部屋に誰もいなくなったところで、彼女はポツンとそう言った。

「同じように働いているのに、子どもになにかあったときの対応とか家のこととか、ぜんぶわたしで。でも、それが当たり前だと思ってたの。それが母親の仕事で、妻の仕事なんだって」

紙コップに半分残ったブラックコーヒーを揺らしながら、彼女は続けた。

「でも、疲れちゃったんだ」

彼女は笑顔と泣き顔が入り混じったような表情でそう言った。

無理に笑おうとした彼女に、そうなんだねとぼくは言い、夫に相談してみたのと尋ねた。

「ううん。話してもムダよ。もう必要なこと以外なにも話したくないの」

壁時計の秒針が静かに進んでいく。あと10分で次の会議のために人がやってくるはずだ。

「それにね、努力しないと継続しない関係性っておかしいと思わない?わたしたちが”いい夫婦”だったならば、わざわざそんな努力なんてする必要がないでしょ?お互いが自然体で接しているだけでうまくいくはずでしょ?」

「努力しないと続かない関係って自然なものじゃなくて、どこかいびつなものだと思うの」

彼女は自分の考えの正当性を求めるかのように、紙コップを両手でくるくると回しながら、ぼくの目を覗き込んだ。

彼女の視線に押されたぼくは、何か言わなければと口を開いた。

「ぼくは妻との関係をよくするために努力をしているけど、いびつだとは思ってないよ」

「どういうこと?」

彼女はさらにぼくの目を覗き込んできた。

エモーションとロジックで魅了するプレゼンが得意な彼女の目力は強く、居心地の悪さを感じたぼくは、彼女の視線を避けながら続けた。

「妻との関係が悪くなった頃、上の子たちが3才になった頃ね。ぼくは家事育児さえしていればいいんだって思ってた。それがいい父親なんだって。

でも、違ったんだ。

ぼくらはシフト制子どもお世話人みたいに働いていて、お互いの姿を直視することがなかったんだ。

妻が昼の勤務で、ぼくが夜の勤務。

ぼくらはお互いの姿を見ることなく、家事育児というジョブをこなしていた。

そういうもんだと思ってた。

でも、気がついたらぼくらはまったく話が合わなくなっていたんだ。分かり合えることがなくなっていた。

だって、お互いのことをちゃんと見ていなかったからね。

お互いになにが不満で、なにに喜びを感じるのか。ぼくらはまったくわかっていなかったんだ。

ぼくの言葉は妻に届かず、妻の言葉はぼくに届いていなかった。

”わかってもらえない不満”だけが、ぼくらの中にたまっていったんだ。

ぼくらに欠けていたのは、お互いに対する思いやりだったんだよ」

ぼくは一気にそこまで言うと、すっかり冷えてしまったコーヒーを口に含んだ。

「それで?」

彼女は射抜くように目を細めると、そう言った。

ここから先は彼女には言いにくかった。だけど、きっと言った方がいいんだろう。

「いい奥さん、いい夫、いい母親、いい父親なんてものは幻想なんだと思う。

どこにもそんな答えはなくて、自分たちで探さないといけないんだと思う。

もしかしたら、君は自分が作り上げた”いい奥さん”という幻想の枠組みに自分を押し込めているだけなのかもしれない。

『妻』も『夫』も『母』も『父』も記号でしかなく、自分たちがどう生きるべきかという答えは、自分たちの関係性の中にしかないんだと思う。

自分たち夫婦が、家族のなかでどう生きるかは、自分たち家族の関係性やつながりのなかでしか見出すことはできないんだと思う。

ぼくら夫婦と君ら夫婦も、まったく別の人間であり、まったく別の夫婦や家族というシステムのなかで生きているのだから。

世界中の夫婦は、みな異なるシステムのなかで生きているんだと思う。夫婦の数だけ異なるシステムがあるんだから。

ふたりが心地よく生きていくためには、自分たちのシステムというふたりの関係性を理解し、その上で、目指すべき姿に向けて行動という”努力”をする必要があるんだと思う。

ふたりが幸せを感じられる行動ならば、その努力はいつか労力ではなくなっていくよね?

努力はいずれ自然にできるようになり、あたりまえのふたりの習慣となっていくからね。

ぼくは時間がかかったけれど、4年間かけてやっとそこまで行けたような気がしてる。

君が最初に言った”お互いが自然体で接しているだけでうまくいく”関係ってやつには、まだ辿り着いてはいないけど、だけど近いところまでは行けてると思うんだ」

ぼくが話している間、彼女はなにも言わず、ずっとぼくの目を強く覗き込んでいた。まるで、ぼくの目から何かが出てくるのを辛抱強く待っているかのように。

ぼくが話し終えると、彼女はふっと力を抜き、微かな笑顔を見せた。

「めずらしいね。そんな話をしてくれるなんて」

彼女の言葉に応えようとぼくが口を開いたそのとき、ドアが開き、次の会議のために人が入ってきた。

外の空気がサッと流れ込み、頭が仕事モードに切り替わったぼくらは目を合わせると会議室を出た。

オフィスへと戻る途中、彼女はなにか言いたそうにしていたけれど、うまく言葉が出ない様子だった。

彼女の金色のピアスだけが、彼女の歩調に合わせてゆらりゆらりと揺れていた。


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