記事一覧

音楽史・記事編141.プラハのドゥシェク夫人とモーツァルト

 ザルツブルクからプラハに嫁いだソプラノ歌手ヨゼファー・ドゥシェクは、プラハで大ヒットしていた歌劇「フィガロの結婚」の作曲者モーツァルトを、貴族たちとともにプラ…

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8日前
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音楽史・記事編140.百年戦争、ブルゴーニュ楽派と音楽史(ルネサンス

 カール大帝によってヨーロッパは西ローマ帝国以来の再統一を果たし、9世紀~10世紀の時期にはグレゴリオ聖歌が編纂され、カール大帝によってヨーロッパ北部に大聖堂が…

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3週間前
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音楽史・記事編139.イスラムの侵攻、十字軍の派遣と音楽史

 今回はイスラム勢力の拡大とそれに伴う十字軍の派遣、十字軍派遣を扱った音楽史について見て行きます。次図に示すように、ギリシャ文明の伝統を受け継ぐローマ帝国は、北…

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1か月前

音楽史・記事編138.讃歌、グレゴリオ聖歌の成立、聖堂の建設と音楽史

 本編ではキリスト教成立以降、ローマ帝国の盛衰等の激動のヨーロッパにおけるゲルマン人の侵攻のなかでのローマ・カトリック教会の各地域へのキリスト教の普及の一環とし…

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1か月前
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音楽史・記事編137.キリスト教の成立、民族大移動と音楽史

 西洋文明の起源となった華やかな古代ギリシャは、紀元前146年に共和制を敷くローマに敗北しその長い歴史に幕を下ろし、地中海一帯は巨大国家ローマが支配するようにな…

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2か月前
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音楽史・記事編136.古代ギリシャと音楽史

 西洋文明は古代ギリシャに始まります。ギリシャ神話、ギリシャ悲劇のほかギリシャ神話にもとづく大理石の彫像の数々や神殿造りの建造物の遺構、そしてソクラテス、プラト…

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2か月前
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音楽史・記事編135.ハイドンの創作史・古典派の巨匠

 バロック時代に始まったオペラの序曲であるシンフォニアは、1730年頃にはイタリアのミラノのサンマルティーニによって単独で演奏されるようになり交響曲が始まったと…

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3か月前
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音楽史・記事編134.ベートーヴェンの肖像画

 ベートーヴェンの肖像画は多数残されていますが、それぞれ特徴的でどれがベートーヴェンの実像なのか・・・1818年、クレーバーはデッサンを描きその後に油彩で肖像を…

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3か月前
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音楽史・記事編133.リストの創作史・ロマン派の大作曲家

 古典派期からロマン派期の時代にイタリア人のパガニーニはバイオリンのヴィルトゥオーソとして一世を風靡していましたが、ロマン派期に登場したリストはピアノのヴィルト…

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4か月前
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音楽史・記事編132.シューマンの創作史・宗派のはざまで

 ベートーヴェンが亡くなった翌年、18歳のロベルト・シューマンは故郷のギムナジウムを卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、一方でピアニストを志望していたシューマンは…

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5か月前
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音楽史・記事編131.ウィーン・ロプコヴィッツ宮殿

〇ハイドンとベートーヴェン、ロプコヴィッツ侯爵から弦楽四重奏曲を委嘱される  ベートーヴェンは1792年に生まれ故郷のボンからウィーンに音楽留学し、そのピアノ演…

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5か月前

音楽史・記事編130.ショパンの創作史

 ポーランドに生まれ、ウィーンで祖国の革命の報に接し、フランスのパリに作曲家、ピアニストとしての活動の場を求め、パリに亡命したポーランド革命家とともにポーランド…

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5か月前
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音楽史・記事編129.ウィーン・エステルハージ宮殿

 ウィーン南部のオーストリーからハンガリーにまたがる広大な領地を持つエステルハージ家はアイゼンシュタットの宮殿を中心に、ウィーン中心部の王宮近くのヴァルナー通り…

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6か月前

音楽史・記事編128.チャイコフスキーの創作史

 フランス移民の血を引くチャイコフスキーは、ロシアにおける最初の交響曲を作曲したアントン・ルビンシュテインの指導を受け交響曲作曲家となり、また歌劇、バレエ音楽、…

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6か月前
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音楽史・記事編127.ウィーン王宮前のミヒャエルハウス

 ウィーン王宮前のコールマルクトの入口にミヒャエルハウスと呼ばれるアパートメントがあり、ここの3階にはウィーン宮廷詩人でありオペラ界の巨人メタスタージョが50年…

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6か月前
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音楽史・記事編126.旧ウィーン大学講堂

 ベートーヴェンはアン・デア・ウィーン劇場の支配人であったシカネーダーと契約し、アン・デア・ウィーン劇場内に住居も提供されて、作曲活動を行っていました。契約では…

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6か月前
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音楽史・記事編141.プラハのドゥシェク夫人とモーツァルト

音楽史・記事編141.プラハのドゥシェク夫人とモーツァルト

 ザルツブルクからプラハに嫁いだソプラノ歌手ヨゼファー・ドゥシェクは、プラハで大ヒットしていた歌劇「フィガロの結婚」の作曲者モーツァルトを、貴族たちとともにプラハに招待し、来訪したモーツァルトと妻のコンスタンツェを別荘ベルトラムカ荘に招き歓待します。モーツァルトはプラハの興行師ボンディーニから次シーズンのための新作オペラの委嘱を受け、再度プラハを訪問したモーツァルトはベルトラムカ荘で歌劇「ドン・ジ

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音楽史・記事編140.百年戦争、ブルゴーニュ楽派と音楽史(ルネサンス

音楽史・記事編140.百年戦争、ブルゴーニュ楽派と音楽史(ルネサンス

 カール大帝によってヨーロッパは西ローマ帝国以来の再統一を果たし、9世紀~10世紀の時期にはグレゴリオ聖歌が編纂され、カール大帝によってヨーロッパ北部に大聖堂が建設され聖堂には巨大なパイプオルガンが設置され、パイプオルガンの伴奏で讃歌、聖歌が歌われたと見られ、記譜の必要性からネウマ譜が用いられ、後には徐々に現代の五線譜に進化して行ったと見られます。また、この時期、イタリアではギリシャ文化・文芸の復

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音楽史・記事編139.イスラムの侵攻、十字軍の派遣と音楽史

音楽史・記事編139.イスラムの侵攻、十字軍の派遣と音楽史

 今回はイスラム勢力の拡大とそれに伴う十字軍の派遣、十字軍派遣を扱った音楽史について見て行きます。次図に示すように、ギリシャ文明の伝統を受け継ぐローマ帝国は、北からはゲルマン民族の侵攻を受け、ゲルマン人とはキリスト教の教義を受け入れさせることにより講和し、さらに南からのイスラムの侵攻を受け、東からはフン族やマジャール人、モンゴル人など遊牧民の侵入にさらされています。結果的には西ローマ帝国のイベリア

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音楽史・記事編138.讃歌、グレゴリオ聖歌の成立、聖堂の建設と音楽史

音楽史・記事編138.讃歌、グレゴリオ聖歌の成立、聖堂の建設と音楽史

 本編ではキリスト教成立以降、ローマ帝国の盛衰等の激動のヨーロッパにおけるゲルマン人の侵攻のなかでのローマ・カトリック教会の各地域へのキリスト教の普及の一環としての聖堂、大聖堂の建設、それに伴う巨大なオルガンの設置、聖堂における聖歌の普及、グレゴリオ聖歌の成立、ノートルダム楽派の誕生等の音楽史を見て行きます。

〇キリスト教とゲルマン民族の侵攻
 キリスト生誕後、キリストによる教義はキリストの弟子

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音楽史・記事編137.キリスト教の成立、民族大移動と音楽史

音楽史・記事編137.キリスト教の成立、民族大移動と音楽史

 西洋文明の起源となった華やかな古代ギリシャは、紀元前146年に共和制を敷くローマに敗北しその長い歴史に幕を下ろし、地中海一帯は巨大国家ローマが支配するようになり、紀元前27年にはアウグストゥスが皇帝位に就き正式にローマ帝国となります。この時期に旧約聖書が成立し、キリスト生誕後には新約聖書が成立します。西洋文化の根源となるキリスト教の聖書はかなり膨大で、その教義については日本人の我々にとってかなり

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音楽史・記事編136.古代ギリシャと音楽史

音楽史・記事編136.古代ギリシャと音楽史

 西洋文明は古代ギリシャに始まります。ギリシャ神話、ギリシャ悲劇のほかギリシャ神話にもとづく大理石の彫像の数々や神殿造りの建造物の遺構、そしてソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者たちは西洋文化の根幹を創り出しています。音楽においてもギリシャ神話の吟遊詩人が音楽を奏でていたことから、音楽は大古からの歴史を持っており、紀元前5世紀にはピタゴラスが音階理論のもとになる音程に関する数比を発見し

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音楽史・記事編135.ハイドンの創作史・古典派の巨匠

音楽史・記事編135.ハイドンの創作史・古典派の巨匠

 バロック時代に始まったオペラの序曲であるシンフォニアは、1730年頃にはイタリアのミラノのサンマルティーニによって単独で演奏されるようになり交響曲が始まったとされます。この背景には平均律という新しい調律法の登場があり、中世以来使用されてきた純正律や過渡期の中全音律に代わり1722年にセバスティアン・バッハによって平均律クラヴィーア曲集が作曲され、この平均律によりいつでもあらゆる調性への転調、移調

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音楽史・記事編134.ベートーヴェンの肖像画

音楽史・記事編134.ベートーヴェンの肖像画

 ベートーヴェンの肖像画は多数残されていますが、それぞれ特徴的でどれがベートーヴェンの実像なのか・・・1818年、クレーバーはデッサンを描きその後に油彩で肖像を仕上げており、デッサンが実像であり油彩画の方はクレーバーの理想的な肖像であったのか・・・当時の肖像は実像を描くというより、理想化した肖像を描くことが一般的であったようです。

〇ボン宮廷音楽家の肖像
 ボン時代のベートーヴェンの肖像として1

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音楽史・記事編133.リストの創作史・ロマン派の大作曲家

音楽史・記事編133.リストの創作史・ロマン派の大作曲家

 古典派期からロマン派期の時代にイタリア人のパガニーニはバイオリンのヴィルトゥオーソとして一世を風靡していましたが、ロマン派期に登場したリストはピアノのヴィルトゥオーソとしてヨーロッパを席巻し、同時代に生まれたショパン、シューマンとともにロマン派の大作曲家となります。

〇リスト創作史の難しさ
 今回のリストの創作史にあたり、本音楽史年表データベースに掲載しているリストの主要な約200作品から、さ

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音楽史・記事編132.シューマンの創作史・宗派のはざまで

音楽史・記事編132.シューマンの創作史・宗派のはざまで

 ベートーヴェンが亡くなった翌年、18歳のロベルト・シューマンは故郷のギムナジウムを卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、一方でピアニストを志望していたシューマンは著名なピアノ指導者フリードリヒ・ヴィークに師事します。ベートーヴェンによってロマン派の扉が開かれ、シューマンはロマン派の申し子のようにピアノ曲を中心に創作を行ってゆきます。

〇ロマン派ピアノ協奏曲への道
 音楽史におけるシューマンの一番の

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音楽史・記事編131.ウィーン・ロプコヴィッツ宮殿

音楽史・記事編131.ウィーン・ロプコヴィッツ宮殿

〇ハイドンとベートーヴェン、ロプコヴィッツ侯爵から弦楽四重奏曲を委嘱される

 ベートーヴェンは1792年に生まれ故郷のボンからウィーンに音楽留学し、そのピアノ演奏はウィーン中の評判となり、作曲においても作品1の3曲のピアノ三重奏曲をリヒノフスキー侯爵に献呈し、さらに作品2の3曲のピアノ・ソナタを師のハイドンに献呈し、そして作品12の3曲のバイオリン・ソナタをベートーヴェンの歌曲の師である宮廷楽長

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音楽史・記事編130.ショパンの創作史

音楽史・記事編130.ショパンの創作史

 ポーランドに生まれ、ウィーンで祖国の革命の報に接し、フランスのパリに作曲家、ピアニストとしての活動の場を求め、パリに亡命したポーランド革命家とともにポーランド民族舞曲を中心として、生涯を通じてピアノ曲の作曲に取り組んだショパンはピアノの詩人と呼ばれています。

〇パリのショパン
 フランス革命後のパリでは自由・平等・博愛のもと共和制を実現し、音楽文化面では劇場等の経営は王侯貴族から海外貿易等で財

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音楽史・記事編129.ウィーン・エステルハージ宮殿

音楽史・記事編129.ウィーン・エステルハージ宮殿

 ウィーン南部のオーストリーからハンガリーにまたがる広大な領地を持つエステルハージ家はアイゼンシュタットの宮殿を中心に、ウィーン中心部の王宮近くのヴァルナー通りにエステルハージ宮殿を構え、またハンガリー領内には歌劇場を併設するエステルハーザ宮があり、エステルハージ侯は冬にはウィーンの宮殿に、夏にはハンガリーのエステルハーザ宮に、それ以外の時期にはアイゼンシュタットの宮殿で政務を行い、楽長のハイドン

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音楽史・記事編128.チャイコフスキーの創作史

音楽史・記事編128.チャイコフスキーの創作史

 フランス移民の血を引くチャイコフスキーは、ロシアにおける最初の交響曲を作曲したアントン・ルビンシュテインの指導を受け交響曲作曲家となり、また歌劇、バレエ音楽、協奏曲、室内楽の分野で、ヨーロッパ音楽の様式を取り入れつつロシア民族音楽を融合した名曲を残しています。

〇チャイコフスキーの交響曲
 チャイコフスキーはペテルブルク音楽院では恩師アントン・ルビンシュタインの指導を受け、卒業後には初めての大

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音楽史・記事編127.ウィーン王宮前のミヒャエルハウス

音楽史・記事編127.ウィーン王宮前のミヒャエルハウス

 ウィーン王宮前のコールマルクトの入口にミヒャエルハウスと呼ばれるアパートメントがあり、ここの3階にはウィーン宮廷詩人でありオペラ界の巨人メタスタージョが50年にわたって居住し、エステルハージ家に雇用される前の若きハイドンが5階の屋根裏部屋に居住し、ベートーヴェンが亡くなった後の1830年にはショパンがウィーンを訪れ、ミヒャエルハウスの4階に8ヶ月間投宿し、その後パリを目指しますが、シュツットガル

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音楽史・記事編126.旧ウィーン大学講堂

音楽史・記事編126.旧ウィーン大学講堂

 ベートーヴェンはアン・デア・ウィーン劇場の支配人であったシカネーダーと契約し、アン・デア・ウィーン劇場内に住居も提供されて、作曲活動を行っていました。契約ではアン・デア・ウィーン劇場での新作の上演が義務とされ、ベートーヴェンは交響曲第3番変ホ長調「英雄」の公開初演を行い、さらに歌劇「フィデリオ」(初稿)およびその改訂稿を初演します。しかし、「フィデリオ」改訂稿初演では当時の興行主のブラウン男爵と

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