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音楽史・記事編129.ウィーン・エステルハージ宮殿

 ウィーン南部のオーストリーからハンガリーにまたがる広大な領地を持つエステルハージ家はアイゼンシュタットの宮殿を中心に、ウィーン中心部の王宮近くのヴァルナー通りにエステルハージ宮殿を構え、またハンガリー領内には歌劇場を併設するエステルハーザ宮があり、エステルハージ侯は冬にはウィーンの宮殿に、夏にはハンガリーのエステルハーザ宮に、それ以外の時期にはアイゼンシュタットの宮殿で政務を行い、楽長のハイドンをはじめ楽団員はエステルハージ侯に同行し、ウィーン、アイゼンシュタット、ハンガリー領内のエステルハーザ宮を季節により移動していたようです。

〇ハイドンとモーツァルト
 1781年3月にミュンヘンからウィーンに到着したモーツァルトは、早速ザルツブルク宮廷楽団の盟友ミヒャエル・ハイドンの実兄ヨーゼフ・ハイドンに初めて会ったとされ、ヨーゼフ・ハイドンとの交流はモーツァルトが亡くなるまで続きます。アイルランド人の歌手マイケル・ケリーの報告によれば、イギリスの作曲家ステファン・ストレースの家では室内楽の集いが行われ、ハイドン、ディッタースドルフ、モーツァルト、ヴァンハルによって弦楽四重奏曲が演奏されていたとされ、ハイドンとモーツァルトはお互いのカルテットを演奏し、互いの音楽様式に大きな影響を与えたことが伺えます。また、ハイドンは1781年の歌劇「報われたまこと」では管弦楽を駆使したフィナーレの拡大を試みており、モーツァルトとダ・ポンテは歌劇「フィガロの結婚」の第2幕と第4幕のフィナーレを大きく拡大し、さらに歌劇「魔笛」ではフィナーレを全曲の半分以上に拡大しており、これらは劇中のセリフやレチタティーヴォ・セッコを廃止し全曲を管弦楽伴奏で進行するロマン派オペラの先駆けと見られます。

〇エステルハーザ宮のハイドン
 ヨーゼフ・ハイドンはアイゼンシュタット、ウィーン、エステルハーザ宮で交響曲やオペラ、ピアノ曲や室内楽の作曲を行い、特に交響曲や弦楽四重奏曲では4楽章のソナタ形式による古典派様式を確立しヨーロッパにおける巨匠の地位を築いています。エマヌエル・バッハやマンハイムのシュターミツ、ウィーン楽派のディッタースドルフなどの前期古典派の作曲家は多くの交響曲を作曲し、ハイドンはさまざまな交響曲様式を試し、1765年には4本のホルンがうなりをあげる交響曲第31番「ホルン信号」のような画期的な傑作を作曲し、愛称がつけられウィットにとんだ多くの作品はエステルハージ家のみならず、ウィーンや既に楽譜出版が始まっていたフランスのパリでも人気を得ています。1766年ニコラウス・エステルハージ侯はハンガリーの領地に夏の離宮エステルハーザ宮を建設し、1768年には歌劇場を建設し、1772年には半年に及ぶ夏の離宮での滞在がさらに延長されるとの通達があり、家族をアイゼンシュタットに残してきている楽団員の不満は高まり、ハイドンは告別交響曲ヘ短調を作曲し、第4楽章では楽員が順番に退出するパントマイムを行い、このパントマイムの意味を理解したエステルハージ侯は直ちに楽員たちをアイゼンシュタットに帰したとされます。

〇モーツァルト、ヘンデル「メサイヤ」編曲版をウィーンのエステルハージ宮殿で初演
 モーツァルトはウィーンでスヴィーテン男爵の音楽サロンでセバスティアン・バッハとヘンデルの音楽を学び、晩年の作曲に大きな影響を受けています。スヴィーテン男爵は外交官としてベルリンなどに赴任し、バッハやヘンデルの楽譜を収集しこれらをウィーンにもたらし、これらの演奏活動を行い、ウィーンで知られていなかったプロテスタント音楽の普及に努めています。1789年モーツァルトはスヴィーテン男爵から同好騎士協会のためのヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」HWV56の編曲の依頼を受け、3/6にウィーンのエステルハージ宮殿で初演しています。モーツァルトはヘンデルの原曲にフルート2、ホルン2、トロンボーン3を追加し、バロック時代の演奏の難しい高音域を使用したトランペット・パートを改良の進んだトランペット用に改作し、さらに通奏低音を廃止し弦楽部においてはビオラを2部にして中音域を厚くし、声楽部においてもアリアに管楽器のオブリガートを加え、合唱の編成を厚くするなどの編曲を行っています。現代では古様式編成の原曲版あるいはモーツァルト編曲版のいずれかで演奏が行われるようです。ハイドンはロンドンで2000人の演奏によるヘンデルの「メサイヤ」に感動し、晩年の大作オラトリオ「天地創造」と「四季」を作曲しています。

【音楽史年表より】
1772年作曲、ハイドン(40)、交響曲第45番嬰ヘ短調「告別」Hob.Ⅰ-45
ハイドンが仕えたエステルハージのニコラウス侯は1766年にフランスのヴェルサイユ宮殿を模した壮麗、豪華な居城を、ノイジートラー湖を見渡す風光明媚な場所に建てた。この城はエステルハーザ宮と呼ばれ、はじめのうちは手狭であったため、管弦楽団の楽員や召使は家族を連れてきてはいけないことになっていた。1772年の滞在は通常の6ヵ月を2ヵ月も上回った。(1)
ハイドンの伝記を書いたグリージンガーがハイドンから直接聞いた話として、夏の間、妻と別れてエステルハーザの宮殿で生活してきた若い楽員たちが、滞在期間をさらに延長するとの殿様の命令に思い余って、ハイドンに策を講じようと頼み、その結果この交響曲が着想されたという。そして、殿様臨席の下に開かれた初演では、楽員たちはそれぞれ自分のパートが終わるとろうそくを消し楽譜を持ち、楽器をかかえて退場するよう指示されていた。殿様はこのパントマイムの意味を即座に理解し、翌日エステルハーザを出発するとの命令が出た。(2)
1773年7/26初演、ハイドン(41)、歌劇「報われぬ不実」Hob.ⅩⅩⅧ-5
2幕の音楽道化劇(ブルレッタ)、エステルハーザ宮殿の歌劇場で初演される。ハイドンは30年近くにわたって雇い主であるエステルハージ侯ニコラウスのためにオペラ公演を監督し、1768年には宮廷内に新築された歌劇場のこけら落とし用に歌劇「薬剤師」を作曲した。歌劇「報われぬ不実」はハイドンの重要な舞台向け作品の最初のものであり、記録に残る最初の公演は前エステルハージ侯爵未亡人の命名祝日(7/26)に行われた。この作品を通してハイドンはオペラ作曲家として大きな一歩を踏み出す。(3)
1781年2/25初演、ハイドン(48)、歌劇「報われたまこと」Hob.ⅩⅩⅧ-10
エステルハーザ宮殿の歌劇場で初演される。エステルハーザ宮殿の歌劇場は1779年11月に火災で失われたが、新しい歌劇場が完成し、「報われたまこと」は、こけら落とし用に作曲された。(1)
1789年3/6初演、モーツァルト(33)、ヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」HWV56の編曲K.572
ウィーンのエステルハージ伯爵邸で初演する。モーツァルトは1742年ダブリンで初演されたヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」を編曲する。アリアには管楽器のオブリガートを加え、合唱の編成を厚くしている。また、ファゴットが通奏低音の役割から独奏楽器としての機能が与えられ、技巧的なトランペット奏者が衰退したトランペットは単純なメロディーに置換えられた。オリジナル楽譜は第3部のみが現存しているが、編曲の際、ウィーンの2名の写譜師が最初にヘンデルの弦楽部を筆写し、そこにあとからモーツァルトが管楽器声部を書き込むという方法であったことを示している。(4)
なお、今日では一般的に「メサイヤ」の上演はモーツァルト編曲版によって行われている。

【参考文献】
1.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
2.中野博詞著・ハイドン復活(春秋社)
3.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
4.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)

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