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音楽史・記事編131.ウィーン・ロプコヴィッツ宮殿

〇ハイドンとベートーヴェン、ロプコヴィッツ侯爵から弦楽四重奏曲を委嘱される  ベートーヴェンは1792年に生まれ故郷のボンからウィーンに音楽留学し、そのピアノ演奏はウィーン中の評判となり、作曲においても作品1の3曲のピアノ三重奏曲をリヒノフスキー侯爵に献呈し、さらに作品2の3曲のピアノ・ソナタを師のハイドンに献呈し、そして作品12の3曲のバイオリン・ソナタをベートーヴェンの歌曲の師である宮廷楽長サリエリに献呈し、それらの革新的な作品はウィーンの人々を惹きつけていました。ボヘ

    • 音楽史・記事編130.ショパンの創作史

       ポーランドに生まれ、ウィーンで祖国の革命の報に接し、フランスのパリに作曲家、ピアニストとしての活動の場を求め、パリに亡命したポーランド革命家とともにポーランド民族舞曲を中心として、生涯を通じてピアノ曲の作曲に取り組んだショパンはピアノの詩人と呼ばれています。 〇パリのショパン  フランス革命後のパリでは自由・平等・博愛のもと共和制を実現し、音楽文化面では劇場等の経営は王侯貴族から海外貿易等で財を成した富裕層に移り、従来からのサロン文化も貴族から富裕層に移行し、また失敗に終

      • 音楽史・記事編129.ウィーン・エステルハージ宮殿

         ウィーン南部のオーストリーからハンガリーにまたがる広大な領地を持つエステルハージ家はアイゼンシュタットの宮殿を中心に、ウィーン中心部の王宮近くのヴァルナー通りにエステルハージ宮殿を構え、またハンガリー領内には歌劇場を併設するエステルハーザ宮があり、エステルハージ侯は冬にはウィーンの宮殿に、夏にはハンガリーのエステルハーザ宮に、それ以外の時期にはアイゼンシュタットの宮殿で政務を行い、楽長のハイドンをはじめ楽団員はエステルハージ侯に同行し、ウィーン、アイゼンシュタット、ハンガリ

        • 音楽史・記事編128.チャイコフスキーの創作史

           フランス移民の血を引くチャイコフスキーは、ロシアにおける最初の交響曲を作曲したアントン・ルビンシュテインの指導を受け交響曲作曲家となり、また歌劇、バレエ音楽、協奏曲、室内楽の分野で、ヨーロッパ音楽の様式を取り入れつつロシア民族音楽を融合した名曲を残しています。 〇チャイコフスキーの交響曲  チャイコフスキーはペテルブルク音楽院では恩師アントン・ルビンシュタインの指導を受け、卒業後には初めての大作として交響曲第1番ト短調「冬の日の幻想」を作曲しています。この作品はベートーヴ

        音楽史・記事編131.ウィーン・ロプコヴィッツ宮殿

          音楽史・記事編127.ウィーン王宮前のミヒャエルハウス

           ウィーン王宮前のコールマルクトの入口にミヒャエルハウスと呼ばれるアパートメントがあり、ここの3階にはウィーン宮廷詩人でありオペラ界の巨人メタスタージョが50年にわたって居住し、エステルハージ家に雇用される前の若きハイドンが5階の屋根裏部屋に居住し、ベートーヴェンが亡くなった後の1830年にはショパンがウィーンを訪れ、ミヒャエルハウスの4階に8ヶ月間投宿し、その後パリを目指しますが、シュツットガルトでワルシャワ武装蜂起の失敗とロシアのワルシャワ占領を知り、奈落の底に落とされ、

          音楽史・記事編127.ウィーン王宮前のミヒャエルハウス

          音楽史・記事編126.旧ウィーン大学講堂

           ベートーヴェンはアン・デア・ウィーン劇場の支配人であったシカネーダーと契約し、アン・デア・ウィーン劇場内に住居も提供されて、作曲活動を行っていました。契約ではアン・デア・ウィーン劇場での新作の上演が義務とされ、ベートーヴェンは交響曲第3番変ホ長調「英雄」の公開初演を行い、さらに歌劇「フィデリオ」(初稿)およびその改訂稿を初演します。しかし、「フィデリオ」改訂稿初演では当時の興行主のブラウン男爵と衝突し、その後交響曲第5番ハ短調、交響曲第6番ヘ長調「田園」を初演していますが、

          音楽史・記事編126.旧ウィーン大学講堂

          音楽史・記事編125.ウィーン・ベートーヴェン記念館(パスクアラティハウス)

           ベートーヴェンは1804年10月から08年6月まで、また1810年4月から15年春までの間、メルケルバスタイのパスクアラティ男爵所有の住居に居住し、ベートーヴェン中期の傑作を作曲しています。ベートーヴェンはこの住居をウィーンの拠点とし、たびたびバーデンやメードリンクなどに避暑などに出かけていたようです。 〇パスクアラティハウスにおける創作  メルケルバスタイのパスクアラティハウスはベートーヴェンがウィーンで最も長く居住した家で今も現存し、ウィーンのベートーヴェン記念館とな

          音楽史・記事編125.ウィーン・ベートーヴェン記念館(パスクアラティハウス)

          音楽史・記事編124.ドボルザークの創作史

           ドボルザークは「ドヴォルジャーク」、「ドヴォルザーク」、「ドボルザーク」などと表記されます。これはチェコ語表記の名前をチェコ語として発音するか、あるいはドイツ語や英語などとして読むかによるものではないかと思われますが、本編では日本で使われてきた「ドボルザーク」を使用します。 〇ボヘミアの歴史  ヨーロッパ中央部に位置するチェコ共和国は古代から南のラテン語民族(西ローマ帝国、ローマ・カトリック教会)、北のゲルマン民族、東のスラヴ民族(東ローマ帝国の流れをくむロシア正教会)に

          音楽史・記事編124.ドボルザークの創作史

          音楽史・記事編123.ウィーン・フォルクスオパーと「魔笛」

          〇フォルクスオパーの歴史  ウィーンのオペラ劇場はウィーン国立歌劇場のほかにアン・デア・ウィーン劇場とウィーン・フォルクスオパーがあり、国立歌劇場では原則オペラが上演され、オペレッタでは唯一ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」のみがレパートリーに加えられ、年末年始に上演されています。アン・デア・ウィーン劇場やフォルクスオパーではヨハン・シュトラウスやレハールのオペレッタを中心にモーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」のほかイタリア・オペラの公演、またバレエ公演やミュージ

          音楽史・記事編123.ウィーン・フォルクスオパーと「魔笛」

          音楽史・記事編122.シューベルトの創作史

           シューベルトの作品はドイチュ番号で表示されます。オーストリーに生まれたオットー・エーリヒ・ドイチュはウィーン大学の音楽史教授となり、1951年にシューベルトの全作品を分類整理しドイチュ番号を発表し、今日では一般的に使用されるようになっています。本編の音楽史年表データベースではドイチュの作品分類(Franz Schubert Thematisches Verzeichenis seiner Werke)に基づきアマチュアのシューベルト研究家平石英雄氏により編纂された「シューベ

          音楽史・記事編122.シューベルトの創作史

          音楽史・記事編121.ウィーン国立歌劇場

          〇ウィーン宮廷歌劇場の建設  1869年5/25、新しく完成したウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」によってこけら落としが行われます。1860年頃から本格的に始まったウィーン大改造に伴い、ウィーンの旧市街を取り囲んでいた城壁が取り壊され、新たなリング通りとその沿線に新しい建物が次々と建設されて行き、ケルントナー門に隣接していたケルントナートーア劇場の隣の城壁を取り壊した敷地に6年の歳月をかけて新しいウィーン宮廷歌劇場が完成しま

          音楽史・記事編121.ウィーン国立歌劇場

          音楽史・記事編120.モーツァルトの創作史

           モーツァルトは約30年にわたり音楽のあらゆる分野で作曲を続け、いずれの分野でも名曲と言われる音楽史における傑作を残し、下記の年度別分類別作品数表に示すように、モーツァルトの創作にはいくつかの転機があることが分かります。本編ではモーツァルトの創作の概要を見て行きます。 (1)パリ、ロンドン訪問以降(7歳から13歳) 〇パリ、ロンドン訪問と出版  1762年モーツァルト一家はウィーンを訪問し、ウィーン王宮で女帝マリア・テレジアや皇帝フランツに歓待され、恐らくマリア・テレジア

          音楽史・記事編120.モーツァルトの創作史

          音楽史・記事編119.ウィーン楽友協会

           ウィーン楽友協会は1870年に完成し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として、音楽史においてもブラームスやブルックナーの交響曲を初演するなどの歴史をもち、現在では毎年新年にはニューイヤーコンサートが開催されるなど世界有数のコンサートホールとなっています。 〇ウィーン楽友協会の設立  ウィーン楽友協会は1812年にウィーンにおける音楽振興を目的として、旧市街に設立されています。シューベルトは1821年に楽友協会主催のコンサートに登場し、歌曲「魔王」などを初演し、1

          音楽史・記事編119.ウィーン楽友協会

          音楽史・記事編118.ブラームスの創作史

           ロマン派期には多くの作曲家が多様な様式で作曲し、お互いに影響を与えています。本編ではブラームスの年度別分類別作品集計をもとに、ブラームスの創作史について見て行きます。なお、音楽史年表データベースに収録している作品を集計しています。また、集計において例えば、「3つの歌」は3作品とし、「ハンガリー舞曲集全21曲」は21作品として集計しています。 〇ブラームスの創作について  ブラームスの創作では生涯を通してピアノ伴奏あるいは無伴奏の歌曲が、またピアノ独奏曲、初期と晩年にはオル

          音楽史・記事編118.ブラームスの創作史

          音楽史・記事編117.ベートーヴェンとドロテーア・エルトマン

           生涯にわたってベートーヴェンを敬愛し、尊敬しつづけた女性には、ピアノ製作者のナネッテ・シュトライヒャー、ハンガリーのテレーゼ・ブルンスヴィク、そしてベートーヴェンの音楽を生涯の課題として演奏活動を続けたドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人がいますが、今回はドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人について見て行きます。  ドロテーアはフランクフルトに生まれ、オーストリアの軍人エルトマン男爵と結婚し1803年頃にウィーンに来て、音楽出版社のハスリンガーの店でベートーヴェンの楽譜

          音楽史・記事編117.ベートーヴェンとドロテーア・エルトマン

          音楽史・記事編116.セバスティアン・バッハの創作史

           本音楽史年表データベースは原稿作成、EXCEL入力、システム化の手順で開発を進めてきており、原稿作成から約20年経過しました。音楽史においても作ってみて分かることがありますが、例えばバッハのカンタータの作品番号(BWV)はドイツ語の曲名のABC順となっているため、創作順ではばらばらになっていることから創作過程は分かりづらくなっており、バッハのカンタータの作曲およびその上演はライプツィヒ時代初期には激務であったといわれていることが、本音楽史年表により明らかになります。  今回

          音楽史・記事編116.セバスティアン・バッハの創作史