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音楽史・記事編132.シューマンの創作史・宗派のはざまで

【お知らせ】
日頃、音楽史年表記事編をご覧いただきありがとうございます。これまで、毎週音楽史記事を投稿してきておりますが、現在音楽史年表データベースの増補案件が山積しておりますので、今後は新規記事の投稿を2、3週おき位にさせていただき、本編のデータベースの拡充編集にあたりたくよろしくお願いいたします。なお、今後の記事編につきましては「リストの創作史」「ハイドンの創作史」「ヘンデルの創作史」その他、を考えておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。SEAラボラトリ 代表 早川

 ベートーヴェンが亡くなった翌年、18歳のロベルト・シューマンは故郷のギムナジウムを卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、一方でピアニストを志望していたシューマンは著名なピアノ指導者フリードリヒ・ヴィークに師事します。ベートーヴェンによってロマン派の扉が開かれ、シューマンはロマン派の申し子のようにピアノ曲を中心に創作を行ってゆきます。

〇ロマン派ピアノ協奏曲への道
 音楽史におけるシューマンの一番の功績は、ピアノ音楽においてロマン派の様式を確立したことと思われます。ロマン派様式はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101によって始められたとされ、1823年にはディアベリのワルツの主題による33の変奏曲Op.120によってロマン派の主要な様式である多様な和声を試みています。シューマンはライプツィヒ大学に入学するとピアノの厳格な指導を行うフリードリヒ・ヴィークに師事しピアニストをめざすものの、右手を故障しピアニストを断念、音楽評論と作曲に活路を見出します。シューマンは30歳になるまでピアノ曲を中心に作曲を行っています。特に独奏ピアノ曲はロマン派時代を代表する作品を残し、ピアノ協奏曲の分野ではショパンやメンデルスゾーンが作曲していますが、本格的ロマン派ピアノ協奏曲はシューマンによって生まれています。ピアノ独奏曲でロマン派の様式を極めたシューマンは、交響曲や室内楽の分野で管弦楽法、アンサンブル法の習得を積み、1845年ロマン派を代表する協奏曲となったピアノ協奏曲イ短調Op.54を完成させました。シューマンはこれらのピアノ曲を当時のヨーロッパで有数の名ピアニストであった妻のクララのために作曲しており、クララこそがシューマンの音楽の一番の理解者であったように思われます。

〇交響曲の取り組み
 1827年ベートーヴェンが死去し、シューマンがライプツィヒ大学に入学した1828年にはゲヴァントハウス管弦楽団によりベートーヴェンの交響曲全曲演奏が行われ、シューマンは大きな影響を受けたとされます。1830年にはフランスのパリでベルリオーズが幻想交響曲を初演し、本格的なロマン派交響曲の時代が到来し、1833年にはメンデルスゾーンがロンドンで交響曲第4番イ長調「イタリア」を初演しています。シューマンの交響曲作曲に大きな影響を与えたのはシューベルトの大ハ長調交響曲「グレイト」の発見であったように見られます。1838年ウィーンを訪問したシューマンはシューベルトの兄フェルディナンドの家を訪れ、ここでシューベルトの遺稿の中から交響曲第8番ハ長調「グレイト」D849を発見し、翌年ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの演奏会でメンデルスゾーンの指揮で初演され、大成功を収めます。この時、シューベルトの未完成交響曲はまだ知られておらず、シューマンによって本格的なドイツ・ロマン派交響曲の扉が開かれ、1846年には集中的に交響曲の作曲に取り組み、交響曲第1番変ロ長調「春」と交響曲第4番ニ短調(初稿)を作曲しています。

〇シューマン、プロテスタント、カトリックの宗派のはざまで
 ドイツは宗教的には南部と西部のカトリック地域と北東部のプロテスタント・ルター派の地域に2分されますが、もともとライン川とドナウ川が西ローマ帝国と敵対するゲルマン人地域との国境であり、カール大帝のヨーロッパ支配によりドイツの全地域がローマカトリック教会の支配下に置かれたものの、ルターの宗教改革により旧ゲルマン人地域がプロテスタント・ルター派に分離したという歴史的背景があり、シューマンはプロテスタント・ルター派の家庭に生まれています。藤本一子著の作曲家・人と作品シリーズ・シューマンによれば・・・ナポレオン戦争後のヨーロッパ新体制は、オーストリア(カトリック)、プロイセン(プロテスタント)、ロシア(ロシア正教)が「神聖同盟」を結んで教派を超えたキリスト教一致を目指した。そして宗教は教義から内面へ、宗教音楽は教会から演奏会場へと場所を移し、宗教的であることは神秘的、ロマン的に通じるものとされた。シューマンはプロテスタントで祖父は牧師だったが、宗教においては情意的リベラルな信仰の持ち主であったようだ・・・。このようにシューマンは宗教的にはリベラルな考えを持ち、学生時代はプロテスタントのライプツィヒ大学からおそらくカトリック教徒が多かったハイデルベルク大学に転校し、1850年にはカトリック圏のデュッセルドルフの音楽監督に就任し、ドイツ・プロテスタント・ルター派のセバスティアン・バッハのロ短調ミサ曲BWV232やマタイ受難曲BWV244を演奏し、合唱団と軋轢を起しています。ラテン語のカトリック典礼で歌われるロ短調ミサ曲については問題がないにしても、ドイツ語で歌われるマタイ受難曲についてはカトリックの教義に反するものとしてカトリック教徒の合唱団員からは相当の抵抗を受けたものと見られます。そもそもオーストリー、プロイセン、ロシアの「神聖同盟」は政治的同盟であり、ローマ・カトリック教会にはあずかり知らぬことであり、「神聖同盟」が結ばれているとはいえ、カトリックの教会ではラテン語以外のミサ曲を歌うことを禁じており、しかもシューマンはミサ曲を教会ではなくコンサートホールで上演し、これもカトリック教徒には耐えられないことだったように思われ、地元のカトリック教会からも相当の圧力があったことが想像されます。宗教的にリベラルな考えを持つシューマンは恐らく合唱団員の予想もしない抵抗に驚き、彼らとの融和を図るためにカトリック典礼に基づく「ミサ・サクラ」を作曲したものと考えられ、このような宗教的問題がシューマンを苦しめ、精神に異常をきたした一因であったと思われます。
 シューマンは作曲家として名をあげようと歌劇の作曲にも取り組みます。シューマンは9歳の時にライプツィヒでモーツァルトの歌劇「魔笛」を体験し感動を得たようで、自身も作曲家として歌劇を作曲することを夢見ていたのでしょう。しかし、シューマンが歌劇「ゲノフェーファ」を作曲しライプツィヒで初演したこの時代には古典的なオペラからロマン派・グランドオペラの時代に移っており、フランスではマイヤーベーアの歌劇「悪魔のロベール」や歌劇「ユグノー教徒」が大ヒットし、これらのオペラは管弦楽も舞台装置も大規模なグランドオペラであり、またドイツではワーグナーがドレスデンで歌劇「タンホイザー」を、ワイマールで歌劇「ローエングリン」を初演するなど、ドイツのオペラ史に残る名作が現れ、それらに比べシューマンのオペラにはドイツ語ジングシュピールの名残の台詞が語られることなどから時代遅れとみなされ、シューマンの苦悩は深まります。
 シューマンの創作史を振り返ると、シューマンはロマン派の申し子のようにピアノ曲の傑作を創作し、初めてのロマン派の本格的ピアノ協奏曲を作曲し、交響曲でもロマン派の代表的な作品を残しながら、宗教作品の作曲上演ではプロテスタント、カトリックの狭間で苦悩し、歌劇においてはフランスのグランドオペラ、ドイツのロマンオペラの前にその力を発揮することなく、おそらくシューマンが構想していた歌劇も未完のうちにその生涯を終えることとなり、宗教作品、歌劇の分野では社会的背景の犠牲になったものの、ピアノ作品および管弦楽の分野では晩年まで作曲を続け、ロマン派音楽に金字塔を打ち立てた偉大な作曲家ということができるのではないかと思われます。

【音楽史年表より】
1810年6/8、シューマン(0)
ロベルト・シューマン生誕、ザクセンのツヴィッカウで書店と出版業者・著述家アウグスト・シューマンと妻ヨハンナの末子の第6子として誕生する。(1)
1830年作曲、シューマン(20)、ピアノのためのアベッグ変奏曲Op.1
1829年から30年にハイデルベルクで作曲され、1831年9月にライプツィヒのキストナー社から出版され、パウリーネ・フォン・アベッグに献呈されるが、伯爵令嬢パウリーネは架空の名前とされ、シューマンが親しかったのは医学部の学生アウグスト・アベッグであった。若干の訂正を行った第2版が1834年から44年の間に出版される。(2)
1834年12月作曲、シューマン(24)、ピアノ小品集「謝肉祭」(カルナヴァル)Op.9
エルネスティーネが生まれ故郷アッシュの綴り字ASCHを音名に読み替えた4音にもとづくピアノ小品集。21曲の各曲にダーヴィッド同盟員たちが登場して変奏曲を展開する。(1)
21曲からなる「4つの音符にもとづく愛らしい情景」、シューマンの天才は最初の作品から明らかであるとはいえ、この謝肉祭はいまや作品の規模においても、独創的な質においても、ピアノ音楽史上の一員を飾るに足る名作の域に達した。(2)
1835年作曲、シューマン(24、25)、ピアノ・ソナタ第1番嬰ヘ短調Op.11
1833年~35年に作曲され、36年ライプツィヒのキストナー社から出版され、クララ・ヴィークに献呈される。初演は36年。このソナタでは1832年の「ファンタンゴ」や1828年の歌曲「アンナに寄せて第2番」の主題が用いられる。(2)
1838年作曲、シューマン(27、28)、ピアノのための幻想曲ハ長調Op.17
この幻想曲は1836年に「廃墟・ピアノのための幻想曲」の名のもとにスケッチされていた楽曲を第1楽章とし、そのあとボンでベートーヴェン記念碑寄付金に参加するために2つの楽章を追加し完成した。ここにはベートーヴェンの歌曲「遥かな恋人に」から「受けたまえこの歌を」の旋律が引用されており、ベートーヴェンへのオマージュでもあり、また音楽が有する超越的な力を象徴するものでもあった。(1)
シューマンは当初クララ・ヴィークに献呈するつもりだったが、39年4月にライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社から出版されたときは、フランツ・リストに献呈される。(2)
1838年5月頃、シューマン(27)、ピアノのための「子どもの情景」Op.15
子供のために良い作品を書き、芸術的な質を落とさず、技術だけではない音楽上の栄養を次の代に与えたという点で、シューマンの右に出る大作曲家は少ない。チャイコフスキーもドビュッシーも、その他19世紀後半以来多くの作曲家がこの点シューマンの影響を受けている。1839年ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社から出版される。(2)
1840年7月、シューマン(30)、ピアノ伴奏歌曲集「女の愛と生涯」全8曲Op.42
シューマンの歌の年はピアノでの抒情性が詩と結びつくことによって、いっそう深められ、具体性を帯びてきたのだが、こうした方向に強く直接の刺激を与え、原動力を与えたのはいうまでもなくクララへの愛であった。作詞者のシャミッソーはフランス人を両親としてシャンパーニュで生まれ、1790年16歳の時に両親に伴われてベルリンに落ち着き、そこでプロイセン王妃の小姓となった。26歳でプロイセンの軍に入り、34歳のとき探検隊に加わって世界を周遊し、帰国して後ベルリンの植物園長に就任する。多くの小説や詩を書き残す。曲集は43年7月ライプツィヒのウィストリング社から出版され、オズヴァルト・ローレンツに献呈される。(2)
1840年9/12、シューマン(30)
シューマンとクララは、ライプツィヒ郊外のシェーネフェルトの教会で結婚式を挙げる。(1)
1841年2/20、シューマン(30)、交響曲第1番変ロ長調「春」Op.38
シューマンはこの年、多くの交響的作品を作曲しているが、その動機のひとつとしてシューベルトの交響曲第8番ハ長調「グレイト」の発見をあげることは必ずしも不当ではないと思う。曲のスケッチは1841年の1/23~26の4日間で完成し、引き続きオーケストレーションが始められ、2/20には完成している。同年出版され、ザクセン王フリードリヒ2世に献呈されている。なお、同年ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社から出版される。この曲には「春の交響曲」という名があるが、これはベットガーの春の詩によって刺激を受けて作曲されているためで、初めは各楽章のそれぞれに「春のはじめ」「たそがれ」「楽しい遊び」「春たけなわ」という標題が付けられていた。(2)
1842年6/2~7/22作曲、シューマン(32)、3つの弦楽四重奏曲作品41
1840年を歌の年、1841年を交響曲の年とするなら1842年は室内楽の年と言っていいほど、シューマンはこの3曲以外にも室内楽曲を産み出している。これまでシューマンは弦楽四重奏曲に時々手を出したり破棄したりしてきた。1842年に入ると四重奏曲に対する情熱が本格的にさらに燃えてきて、後期のベートーヴェンの四重奏曲を研究する。こうして生まれて3曲に対してシューマンが相当の自信を持ったことはたしかで、友人のメンデルスゾーンに3曲をささげていることからもそれがわかる。実際シューマンの作品41の3曲の四重奏曲はベートーヴェンからブラームスにいたる重要なかけ橋となっている。(2)
シューマンは対位法とフーガに取り組み、この年の初めから四重奏曲に意欲を示し、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を研究する。(1)
1845年12/4初演、シューマン(35)、ピアノ協奏曲イ短調Op.54
ドレスデンでクララ・シューマンのピアノ独奏によって私的に初演される。シューマンは1841年にピアノと管弦楽のための幻想曲イ短調を作曲しているが、この幻想曲を第1楽章とし1845年に2、3楽章を書き、ピアノ協奏曲とした。この協奏曲は外面的なはなやかな効果を狙った当時流行のいわゆる名人芸協奏曲とは違うものであるが、シューマン特有のピアノ音楽は複雑化され、色彩化され、演奏し難い部類のものに属する。(2)
1853年10/23作曲、シューマン(43)、バイオリンとピアノのためのF・A・Eソナタ イ短調WoO22
ヨアヒムはデュッセルドルフで演奏会を開いたが、シューマン、ブラームス、ディートリヒの3人は演奏会のあとで共通の友人ヨアヒムに贈るために、ヨアヒムがモットーとしていた「自由に、しかし孤独に Frei aber Einsam」という言葉の3つの頭文字FAE(ヘイホ音)を題材とするイ短調のソナタを共作した。シューマンは10/15と10/23に緩徐楽章「間奏曲」とフィナーレを作曲する。曲はヨーゼフ・ヨアヒムに献呈される。(2)
1856年7/29、シューマン(46)
午後4時過ぎ、シューマン妻クララに看取られてこの世を去る。(1)

【参考文献】
1.藤本一子・人と作品シューマン(音楽之友社)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・シューマン(音楽之友社)

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