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音楽史・記事編135.ハイドンの創作史・古典派の巨匠

 バロック時代に始まったオペラの序曲であるシンフォニアは、1730年頃にはイタリアのミラノのサンマルティーニによって単独で演奏されるようになり交響曲が始まったとされます。この背景には平均律という新しい調律法の登場があり、中世以来使用されてきた純正律や過渡期の中全音律に代わり1722年にセバスティアン・バッハによって平均律クラヴィーア曲集が作曲され、この平均律によりいつでもあらゆる調性への転調、移調が可能となり転調を多用する交響曲はその可能性を大きく広げます。また、サンマルティーニの2つの主題や展開法などのシンフォニア様式はドイツの作曲家に伝えられ、エマヌエル・バッハやシュターミツによってソナタ形式として理論化され、古典派音楽の基礎が築かれ、このようにイタリアのシンフォニア様式とドイツで生まれた平均律という調律法が融合しソナタ形式が生まれ、前期古典派の作曲家によって膨大な数のソナタやシンフォニーが作曲されるようになります。これらの新しい音楽は人気を得て、瞬く間にヨーロッパの宮廷に広がっていったことが伺えます。このような時代に現れたヨーゼフ・ハイドンは独学で新しいソナタ形式やフックスの対位法を学び、さまざまな交響曲様式を試し、ソナタ形式を中心とした4楽章の交響曲様式を完成させ、古典派を代表するヨーロッパの巨匠と呼ばれるまでになり、またウィットに富んだ曲作りからパパ・ハイドンと親しまれます。

〇交響曲の父・ハイドン
 ハイドンは生涯に104曲の交響曲を残しています。ハイドンが交響曲を作曲し始めたころの前期古典派の作曲家は多作で、マンハイムのシュターミツは約50曲、ウィーンのデュッタースドルフは150曲もの交響曲を作曲したといわれ、各宮廷では交響曲がもてはやされていたことが伺え、これらの交響曲は繰り返し演奏されることはあまりなく、ハイドンの時代になってパリで交響曲の印刷譜が出版されるようになり、ハイドンの交響曲は人気を得て広く演奏されるようになったようです。ハイドンは長くエステルハージ侯爵家の楽長を務め、第81番までの交響曲をエステルハージ侯爵家のために作曲し、82番以降の交響曲はフランスとイギリスのために作曲しています。「熊」「めんどり」「王妃」を含む第82番から87番までの6曲はフランス・パリのオランピック演奏会のために作曲し、88番「V字」と89番はかつてエステルハージ侯爵家でバイオリン奏者を務めていたフランスのトストのために作曲し、90番から92番「オックスフォード」はフランスのドニィ伯爵のために作曲され、これらのフランスのために作曲されたハイドンの交響曲演奏会にはフランス王家の嫁いだ王妃マリー・アントワネットも参列していました。なお、92番の交響曲はハイドンが後にイギリスを訪問し、オックスフォード大学から名誉博士号を授与されたときにハイドン自ら指揮したことから「オックスフォード」と呼ばれています。ザロモンの招聘でイギリスのロンドンを訪問したハイドンはハノーバー・スクウェアーで行われたザロモン演奏会のために「驚愕」「奇跡」「軍隊」「時計」「ドラムロール」「ロンドン」などの93番から104番の12曲の交響曲を作曲しています。ハイドンの最後の交響曲となった交響曲第104番「ロンドン」ではイギリスの童謡「ロンドン橋、落ちた」の第2主題「子供が通る、大人が通る」が使われます。

〇ハイドンとモーツァルト・・・お互いの創作に影響を与え合う
 ハイドンは交響曲の父であるとともに、弦楽四重奏曲の様式を確立し弦楽四重奏曲の父とも呼ばれています。ハイドンは21歳で初めての弦楽四重奏曲を作曲し、40歳までに約30曲の弦楽四重奏曲を作曲し、1772年には集大成として終楽章にフーガを配置した6曲の太陽四重奏曲集作品20を作曲します。そして、モーツァルトがウィーンに移住した1781年には6曲のロシア四重奏曲集作品33を作曲します。ハイドンはロシア四重奏曲で画期的な取り組みを行ったとされ、すなわちソナタ形式の展開方法や貴族の舞踏であるメヌエットに代え、テンポの速い庶民の舞踏であるスケルツォを採用するなどの革新的作曲法を試し、ハイドンとともにこの四重奏曲集を演奏したモーツァルトは第3曲のバードカルテットには圧倒されたとされます。モーツァルトはハイドンに対する返礼として、推敲を重ねて6曲のハイドン四重奏曲集を作曲しハイドンに献呈し、ハイドンとモーツァルトの交流により音楽史に残る室内楽の最高傑作が生まれます。ハイドンはモーツァルトの四重奏曲を最上の作品と評価し、この影響を受け後期の「ひばり」「皇帝」「日の出」などの名作を作曲し、モーツァルトとハイドンによる弦楽四重奏曲の発展的創作は、ベートーヴェンによってさらに高みに上ります。

〇ハイドンの交響曲演奏の難しさ
 ハイドンやモーツァルトの交響曲はたいへん優れているにもかかわらず、日本ではベートーヴェンやロマン派の交響曲に比べて演奏回数は少なく、たしかにモーツァルトのジュピター交響曲が演奏されても、フーガとソナタ形式が融合された壮大なフィナーレの音楽が豊かに響かず貧弱に聞こえてしまうことがあるのはなぜか・・・
 ハイドンの時代の演奏会場は多くが石作りの残響の豊かな響きの良いホールであり、ハイドンやモーツァルトはこのホールの豊かな響きを前提に作曲を行っていたように思われます。しかし、ベートーヴェンは難聴のために作曲する音楽の響きを自身の頭の中で作っており、多くの声部のなかに音楽の響きを織り込んだため、ベートーヴェン以降のロマン派の音楽は響きの悪いホールでもそれなりの演奏が可能となったのではないかと思われます。また、交響曲においてピアノ、フォルテの強弱をつける演奏様式はマンハイム楽派で始まったとされ、モーツァルトはパリで初演した交響曲第31番「パリ」で初めて強弱をつける演奏様式を試みています。ハイドンやモーツァルトの楽曲の強弱の演奏においては、楽器の音を弱く強く出すのではなく、ピアノではホールを弱く響かせる、フォルテではホールを豊かに響かせるような演奏方法が望ましく、また各声部の対等な扱いを意図していることから、アンサンブルにおいてはホールを豊かに響かせる演奏が望ましいと思われます。日本でも最近は響きの良いホールが作られるようになり、かなり改善されていますので、ハイドンやモーツァルトの多くの名曲が楽しめるように望まれます。

〇庶民の作曲家ハイドン
 ハイドンの時代、作曲家は王侯貴族のために作品を創作し演奏していましたが、一般庶民がこれらの作品を聴いていたのかどうかについて考察します。まず、庶民が演奏を聴ける場所は教会です。キリスト教では神の前での平等をうたっていますので一般の庶民が入場できる教会でミサ曲等が演奏されれば、身分に関係なくだれでもこれらの宗教音楽を聴くことができ、モーツァルトはオルガンに弦楽や管楽を加えた教会ソナタを作曲していますので、これは明らかに教会における一般庶民向けの演奏のためであったように思われます。
 また、ハイドンは交響曲においては第3楽章で貴族の舞踏であるメヌエットを配置し、フィナーレの第4楽章では明らかにテンポの速い庶民の舞踏曲を置いており、ハイドンの交響曲出版の折には直ちにさまざまな編曲が出版されていたようで、おそらく街楽師たちによってハイドンの交響曲が演奏され、庶民はこの演奏により歌い踊っていたものと想像されます。さらに、1773年9月、女帝マリア・テレジアは数名の大公女を伴ってエステルハージ侯爵家のエステルハーザ宮を訪問し、交響曲第48番「マリア・テレジア」、歌劇「報われぬ不実」、マリオネット・オペラ「フィレモンとバチウス」などのハイドンの作品の上演で歓迎され、3日目の晩には1000人の農民の踊りと花火でもてなされたとされます。このとき農民の踊りではハイドンの交響曲の終楽章が用いられた可能は十分に考えられます。
 ハイドンは車大工の息子として生まれ、シュテファン大聖堂楽長ロイターに見出され、8歳でシュテファン大聖堂聖歌隊に入隊します。17歳で声代わりにより聖歌隊を離れ、ウィーン宮廷詩人のメタスタージョが居住するミヒャエルハウスの屋根裏部屋へ移り、独学でソナタ形式や対位法の勉強を始めますが、メタスタージョに作曲家ポルポラを紹介され音楽の基礎を学びます。メタスタージョはオペラ・セリアの様式を確立したオペラ界の重鎮でしたが、自身は貧しい階層の出であったとされ、同じ境遇のハイドンに目をかけた可能性が考えられます。モーツァルト史ではモーツァルトを冷遇した女帝ですが、音楽関係ではメタスタージョの登用やハイドンの徴用、軍人ではラトヴィアのラウドンの登用など、身分に関係なく能力による登用を行っており、庶民のための義務教育の改革など民衆に寄り添った政治を行い、国民の信望を得ていました。

〇ハイドンのオペラ改革
 ハイドンは交響曲、弦楽四重奏曲、そして室内楽のピアノ三重奏曲などの分野においても古典派様式を確立しますが、ハイドンはオペラにおいても画期的な改革を行っています。1780年に作曲し、翌年初演された歌劇「報われた誠」では、管弦楽を駆使した規模の大きいフィナーレを作曲しています。モーツァルトはハイドンのフィナーレの拡大にならい歌劇「フィガロの結婚」では第2幕、第4幕でフィナーレを拡大し、さらに最後の歌劇「魔笛」では、フィナーレを全曲の約半分にまで拡大しました(6)。管弦楽を使ったフィナーレではチェンバロ伴奏のレチタティーヴォやジングシュピールにおける語りは用いられず、すべて管弦楽伴奏によってレチタティーヴォ、アリア、重唱、合唱が歌われます。ロマン派のオペラではチェンバロやクラヴィーア伴奏の語りであるレチタティーヴォや語りは用いられなくなり、序奏、序曲も含めオペラ全曲がすべて管弦楽伴奏で進行することから、ハイドンのオペラがロマン派オペラ様式の先駆けであったと見ることができます。古典派のオペラはグルック、ハイドン、モーツァルトによって改革が成し遂げられました。

【音楽史年表より】
1732年3/31、ハイドン(0)
ヨーゼフ・ハイドン、ハンガリー国境に近いローラウ村に生まれる。父は車大工で、根っからの音楽好きでハープを弾いた。(1)(2)
1749年、ハイドン(17)
ハイドン、この頃声変わりのため少年聖歌隊を去り、ウィーンのミヒャエル広場に面したミヒャエルハウスの屋根裏階で自活を開始する。(3)
1765年9/13作曲、ハイドン(33)、交響曲第31番ニ長調「ホルン信号」Hob.Ⅰ-31
1763年8月から12月までの間、1765年5月から66年2月までの期間、エステルハージ侯の楽団には4人のホルン奏者が勤務していた。ホルン4本を持つ交響曲4曲(第13番ニ長調、第31番ニ長調、第39番ト短調、第72番ニ長調)と新発見されたディヴェルティメント ニ長調はすべてこの時期に作曲された。第1楽章は軍隊用のトラムペット信号で開始され、そのあとに郵便ホルンの旋律が続く。第4楽章では通奏を除くすべての楽器が独奏者として登場する変奏曲を置いている。そして、フィナーレのエンディングには第1楽章冒頭のホルン信号が現れる。(1)(7)
1781年秋作曲、ハイドン(49)、弦楽四重奏曲Op.33、Hob.Ⅲ-37~42(ロシア四重奏曲)
ハイドンは作品20の弦楽四重奏曲集から9年の間隔をおいて、1781年に作品33の弦楽四重奏曲集を作曲する。ハイドンはこの曲集を予約販売するにあたって記した手紙で「10年来弦楽四重奏曲をまったく書かなかったので、これらの曲はまったく新しい特別な方法で作曲された」と語っている。この「全く新しい特別な方法」とは一体なんであったのか、議論は今から100年以上も前に始まり、20世紀初頭のハイドン・ルネサンスの立役者のひとりアドルフ・ザントベルガーは、ハイドンの新しいスタイルの特質が主題を存分に展開させる主題労作の手法の発展にあると考え、緻密な主題労作をくりひろげる作品33の曲集によって古典派のスタイルが完成したとの見解を発表した。(2)
アイルランド人の歌手マイケル・ケリーによれば、彼はストレース家での室内楽の集いに行ったが、この日は次のような人物によって四重奏が演奏された。すなわち第1バイオリンはハイドン、第2バイオリンはこのときウィーンを訪れていたことはディッタース・フォン・ディッタースドルフ、ビオラはモーツァルト、チェロはボヘミアの作曲家ヨハン・バプティスト・ヴァンハルであった。プログラムに演奏者たちの作った曲が含まれていたことは明らかで、この日の音楽会の聴衆にはモーツァルトが大いに讃美していたパイジェッロ、イタリアの詩人で修道院長のカスティがいた。ハイドンとモーツァルトの間の暖かい交情は以上のような出会いの結果うまれてきたものであるが、これがモーツァルトのもっとも輝かしい作品のひとつ、すなわち1782年から1785年にかけて書かれ、ハイドンに献呈された「ハイドン弦楽四重奏曲」を生み出すきっかけとなったのである。(4)
1789年作曲、ハイドン(57)、交響曲第92番ト長調「オックスフォード」Hob.Ⅰ-92
フランスのドニィ伯爵からの依頼を受けて書かれた交響曲の第3曲で、ハイドンの心技ともにきわめて円熟していて、すぐれた内容を示し、当時の代表的な作品としてザロモン交響曲に劣らぬ価値を持っている。対位法的手法を使った緻密な書きかたとオーケストラの響きの豊かさは、交響曲の可能性をおしひろげて、ベートーヴェンに至るまでの道をほのめかせている点で歴史的価値もきわめて大きい。この曲の愛称「オックスフォード」の由来については次のような話が残っている。のちにハイドンがザロモンに招かれてイギリス・ロンドンで音楽会を催し、大成功を収めたが、その成功にオックスフォード大学はハイドンの崇拝者であるC・バーニー博士の推薦により名誉音楽博士の称号を贈った。この好意に対して謝意を表するためハイドンはただちにオックスフォードに赴き、1791年7月6日から8日までの3日間にわたり3回の演奏会を開催した。最終日の8日にはハイドンは公式の学位授与式の席において、ガウンを着用し、みずから指揮してこのト長調交響曲を演奏した。(1)(7)
1800年3/28初演、ハイドン(68)、トランペット協奏曲変ホ長調Hob.Ⅶe-1
ウィーンのブルク劇場におけるヴァイディンガーの慈善演奏会で初演される。ウィーンの新聞記事によれば、ウィーンの宮廷オーケストラのトランペット奏者ヴァイディンガーがキーのついたトランペットを発明したのは、この協奏曲をハイドンが作曲する3年前の1793年で、その後7年間にわたって改良を重ねた結果、ヴァイディンガーは1800年3月にウィーンのブルク劇場で演奏会を催し、この協奏曲の初演によって、この新式のトランペットを披露した。(2)(1)
1809年5/31、ハイドン(77)
フランス軍がウィーンを包囲する中、ヨーゼフ・ハイドン、ウィーンにて死去する。(名曲解説ライブラリー・ハイドンより)6/1、ハイドンはグッペンドルフのハイドン邸で密やかな葬儀が行われ、フントシュトルマー墓地に仮埋葬される。(1)
ハイドン逝去の報は数日中にウィーン全市民の知るところとなり、6/15にショッテン教会で市民による追悼式が行われる。戦闘こそ収まっていたとはいえ、フランス軍駐留の中での追悼式には疎開せずにウィーンに残留していた名士や芸術家のほとんどが出席し、フランス軍士官や一般兵士も参列して、ハイドンが最も愛し、高く評した作曲家モーツァルトの「レクイエム」が演奏された。(5)

【参考文献】
1.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
2.中野博詞著、ハイドン復活(春秋社)
3.池上健一郎著、作曲家・人と作品シリーズ ハイドン(音楽之友社)
4.ラング編・国安洋・吉田泰輔共訳、モーツァルトの創作の世界、E・F・シュミット著、モーツァルトとハイドン(音楽之友社)
5.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
6.R・ランドン著・石井宏訳、モーツァルト(中央公論新社)
7.中野博詞著、ハイドン交響曲(春秋社)

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