音楽史・記事編134.ベートーヴェンの肖像画
ベートーヴェンの肖像画は多数残されていますが、それぞれ特徴的でどれがベートーヴェンの実像なのか・・・1818年、クレーバーはデッサンを描きその後に油彩で肖像を仕上げており、デッサンが実像であり油彩画の方はクレーバーの理想的な肖像であったのか・・・当時の肖像は実像を描くというより、理想化した肖像を描くことが一般的であったようです。
〇ボン宮廷音楽家の肖像
ボン時代のベートーヴェンの肖像として16歳のかつらをかぶった楽師としてのシルエットが知られていましたが、1972年、13歳の肖像画が現れました。この肖像は1952年に競売に出され、その後ウィーンの歴史博物館において修復され鑑定が行われたとされます(1)。13歳の肖像でありながら33歳のメーラーの肖像や47歳のクレーバーのデッサン画のように鋭い眼光と広く大きい額が特徴で、少年時代のベートーヴェンの実像を感じさせます。
〇竪琴を持ったメーラーの肖像画
1804年、メーラーはギリシャの古楽器リラを持ったベートーヴェンを描いています。ベートーヴェンはよほどこの肖像が気に入ったのか、生涯この肖像を大切に保管していました。ギリシャ神話に出てくるオルフェウスは毒蛇にかまれて亡くなった愛する妻のエウリディーチェを取り返すために冥界に入り、このときオルフェウスは竪琴であるリラを持っていました。冥界の人々はオルフェウスの奏でるえもいわれぬリラの音楽に感動し、エウリディーチェを現世に戻すことに同意しましたが、オルフェウスには冥界を出るまでは決して後ろを振り返りエウリディーチェを見てはいけないとの条件が付けられます。しかし、不安にかられたオルフェウスは冥界を出る寸前で後ろを振り返ったため、エウリディーチェは現世に戻ることはかなわなかった・・・
ルネサンス後期にイタリア・フィレンツェのギリシャ芸術復興を目指すカメラータの人々は、冥界の人々を感動させた吟遊詩人オルフェウスの音楽の復興を目指し、竪琴による語りをレチタティーヴォに竪琴伴奏の歌唱をアリアとして復元し、モンテヴェルディはこれに管弦楽、重唱、合唱を加え1607年2月に近代オペラの起源となる「オルフェオ」をマントヴァで初演しました。モンテヴェルディのオルフェオによってバロック音楽の大きな柱となる近代オペラが生まれ、しかもギリシャ音楽芸術復興がオルフェウスの奏でた竪琴に始まったことから、ベートーヴェンがオルフェウスのように竪琴を持つ肖像を描いたということは、ベートーヴェンは近代音楽を始めたモンテヴェルディのように、新たな音楽創造を行いたいとの意思表示のように思われます。
〇シュティーラーとヴァルトミューラーの肖像画
ベートーヴェンが50歳前後にシュティーラーとヴァルトミューラーがベートーヴェンの肖像を描いていますが、有名なシュティーラーの肖像が若々しく描かれているのに対し、一方のヴァルトミューラーの肖像は老け顔となっています。これはどういうことか・・・
ヴァルトミューラーの肖像について武川寛海氏の著作によれば、・・・マカロニチーズの調理を料理女が失敗して、ベートーヴェンの機嫌が最悪の時に、ヴァルトミューラーが入ってきて、ブライトコプフ社から頼まれてきたので一枚描かせてほしいと言った。ベートーヴェンはしぶしぶ椅子に座ったが、光線の加減から窓の方に向かって座りなおしてほしいなど、当時目を悪くしていたヴァルトミューラーの言い分が気に入らなかったのか、ベートーヴェンはほんのわずかしかポーズを取らなかった。やむを得ずヴァルトミューラーは家に帰り、その時の印象を頼りに絵にしたのであるが、ヴァルトミューラーはベートーヴェンに腹いせをしようとしたとか、あるいは不機嫌なベートーヴェンを不滅のものとしたのか?などとも言われている。・・・
一方のシュティーラーの肖像はフランクフルトのブレンターノ家からの依頼で描かれたとされます。1812年ベートーヴェンはアントーニア・ブレンターノとの将来を夢見て、不滅の恋人への手紙を書きますが、ヨゼフィーネとの一件でアントーニアとの関係は破綻し、人生最大の苦悩のどん底にたたき落されます。ベートーヴェンはエルデーディ夫人への手紙で「苦悩から歓喜へ」と述べ、精神的に苦しむ中体調を崩しますが、このことを伝え聞いたフランクフルトのアントーニアから見舞金が送られてきます。フランクフルトに戻ったアントーニアも障害児として生まれてきた子供の養育と、フランクフルトの大家族のブレンターノ家における以前の心身症の症状も再発し、苦悩していたものと思われます(2)。苦悩するベートーヴェンとアントーニアを救ったのはアントーニアの夫のフランツ・ブレンターノであったかもしれません。ブレンターノ家とベートーヴェンの間には新たな友情が芽生え、慈悲深いフランツ・ブレンターノはベートーヴェンの要請に応じ、大曲「ミサ・ソレムニス」の出版と販売に尽力するなど、ベートーヴェンを経済的に援助しています。そして、ブレンターノは当代随一と評判の画家シュティーラーにベートーヴェンの肖像を描くように依頼したものと思われます。ベートーヴェンはこの要請を快諾し、シュティーラーの3回にわたるデッサンに協力し、おそらく、10年前に不滅の恋人アントーニアから贈られた象牙のアントーニアの肖像と釣り合うようにシュティーラーに対し10歳ほど若く描いてほしいと注文を付けたものと思われます。このときベートーヴェンは精神を病み翌年に亡くなるヨゼフィーネを扶助しており、ベートーヴェンは日本の著名な詩人・T氏が「ベートーヴェン」という詩で述べているような「女に振られてばかりの惨めな男」では全くなく、人生の最期には結婚を考えたジュリエッタ、ヨゼフィーネ、アントーニアの3人のいずれの女性からも敬愛され、また結婚話を進めていた主治医マルファッティ医師の姪のテレーゼ・マルファッティの件も、両親によって破談になったもののベートーヴェンがちょうどこの時期にベートーヴェンを訪問したフランクフルトの才女ベッティーナ・ブレンターノと連日デートしているとウィーンで噂になり、両親が誤解したものと思われ、テレーゼ・マルファッティは4年後も独身でありこの時期にいまだにベートーヴェンと本の貸し借りを行っていた証拠があり(2)、テレーゼ・マルファッティもベートーヴェンを慕っていたように思われます。ベートーヴェンはヨーロッパの音楽の巨匠としての名声は高まり、葬儀ではウィーンの民衆3万人が別れを告げるなど、まさに苦悩から歓喜へと自らの苦難を乗り越え、難聴でありながら作曲家として音楽史における傑作を生みだし、素晴らしい人生を全うしたのでした。
【参考文献】
1.武川寛海著、ベートーヴェンの虚像(音楽之友社)
2.青木やよひ著、決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
SEAラボラトリ・240614改訂
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?