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音楽史・記事編131.ウィーン・ロプコヴィッツ宮殿

〇ハイドンとベートーヴェン、ロプコヴィッツ侯爵から弦楽四重奏曲を委嘱される

 ベートーヴェンは1792年に生まれ故郷のボンからウィーンに音楽留学し、そのピアノ演奏はウィーン中の評判となり、作曲においても作品1の3曲のピアノ三重奏曲をリヒノフスキー侯爵に献呈し、さらに作品2の3曲のピアノ・ソナタを師のハイドンに献呈し、そして作品12の3曲のバイオリン・ソナタをベートーヴェンの歌曲の師である宮廷楽長サリエリに献呈し、それらの革新的な作品はウィーンの人々を惹きつけていました。ボヘミアのプラハ北方に領地を持つロプコヴィッツ侯爵は、ベートーヴェンが続いて作曲するとみられた最初の弦楽四重奏曲については是非とも自身に献呈を受けたいと思ったものと見られ、侯爵はベートーヴェンに弦楽四重奏曲の委嘱を行うにあたり、弦楽四重奏曲の父ともいわれたヨーゼフ・ハイドンにも同様に弦楽四重奏曲の委嘱を行い、新旧二人の作曲家によって競い合わせるという趣向を考えたようです。当時の弦楽四重奏曲は6曲セットで作曲することが慣行となっており、ハイドンもこれまで12セット72曲の弦楽四重奏曲を作曲しています。ハイドンは作曲家人生の最晩年にあたり、モーツァルトの晩年のような清楚な作品を目指したのかもしれません。しかし、1799年ベートーヴェンは2曲の弦楽四重奏曲を発表し、これらはこれまでの作曲様式の殻を打ち破った画期的な作品であり、ハイドンは血気盛んな若きベートーヴェンの作品を見届け、2曲で作曲を中止しています。ウィーンではベートーヴェンの弦楽四重奏曲は弦楽四重奏曲創作史における最大の傑作であると評価する声も上がっていました。ハイドンはクラヴィーア協奏曲と歌劇の分野でモーツァルトに道を譲り、自らがその様式の確立に関わってきた交響曲、ピアノ三重奏曲、そして弦楽四重奏曲の分野ではベートーヴェンに道を明け渡し、これまで作曲してきたすべての分野から引退し、作曲家としての気力を失いつつあったハイドンですが、人生の最期に老骨にムチ打ち大曲のオラトリオ「天地創造」とオラトリオ「四季」を完成させています。

〇交響曲第3番「英雄」と交響曲第4番の試演
 ベートーヴェンはウィーンでピアノ三重奏曲、ピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲などを作曲し、満を持して交響曲の作曲に取り組みます。ベートーヴェンは初期の3つの交響曲をセットで作曲したように思われます。すなわち、生まれ育ったライン地方の思い出と作曲家としての船出を誓った交響曲第1番ハ長調、イタリアのトリエステに生まれたピアノの弟子ジュリエッタのために作曲した交響曲第2番ニ長調、そしてハイドンの3曲セットの原型である「朝」「昼」「晩」にならい壮大なフィナーレを持つ交響曲第3番変ホ長調「英雄」は身分制度を越えたフランスの理想の共和制を実現しようとしたナポレオン・ボナパルトのために作曲され、このようにしてベートーヴェンの初期の3曲セットの交響曲はドイツ、イタリア、フランスにちなむ交響曲となっています。ベートーヴェンは初期の交響曲を締めくくる英雄交響曲をウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸で試演し、ベートーヴェンはこの交響曲をロプコヴィッツ侯爵に献呈しました。ベートーヴェンはこの交響曲に「ボナパルト」と名付け、当初はナポレオンへの献呈を考えていたのかもしれませんが、ナポレオンのヨーロッパ各地への侵攻が進む中、ナポレオンの考えが理想の共和制の実現にあるのではなく覇権の拡大にあるのではないかと思われるようになり、ナポレオンが「皇帝」の地位についてことを知ると、ベートーヴェンは怒りを爆発させ、ナポレオンへの献呈を取りやめたものと見られます。
 ベートーヴェンは交響曲第1番をベートーヴェンのバッハの平均律クラヴィーア曲集の演奏を称賛したスヴィーテン男爵に、交響曲第2番をベートーヴェンのウィーンでの宿舎を提供し夜会でウィーンの多くの音楽関係者を紹介したリヒノフスキー侯爵に、そして交響曲第3番「英雄」はロプコヴィッツ侯爵に献呈しています。1806年の夏の終わりにベートーヴェンはボヘミアの東方シレジア地方に領地をもつリヒノフスキー侯爵とともにシレジアのグレーツの居城を訪問し、この折にオーバーグロガウにオッペルスッドルフ伯爵を訪問し自身の交響曲第2番ニ長調の演奏で歓迎されます。このことが縁で英雄交響曲の次作の交響曲第4番変ロ長調はオッペルスドルフ伯爵に献呈されることとなります。この時期、ベートーヴェンは夫と死別し未亡人となっていたヨゼフィーネ・フォン・ダイムと相思相愛の関係となり、ヨゼフィーネのために歌劇「レオノーレ・・夫婦の愛の勝利」を作曲し初演していますが、不成功に終わり、続くボン時代からの親友シュテファン・フォン・ブロイニングの改訂台本による第2稿も失敗に終わり、「夫婦の愛の勝利」を願っていたベートーヴェンは歌劇に代わり3曲の交響曲によって「夫婦の愛の勝利」の成就を願ったものと見られます。
参照・音楽史年表記事編45.ベートーヴェン、交響曲第4番変ロ長調
参照・音楽史年表記事編47.ベートーヴェン、交響曲第5番ハ短調

【音楽史年表より】
1799年作曲、ハイドン(66)、作品77の弦楽四重奏曲集(Hob.Ⅲ-81,82)
1799年ハイドンはベートーヴェンのパトロンとして有名なロプコヴィッツ侯爵の注文に応じて、一般に作品77の曲集として知られる2曲の弦楽四重奏曲を作曲する。ハイドンは弦楽四重奏曲を通常6曲あるいは3曲1組で作曲して来ており、作品77の曲集も本来6曲1組として計画されたと推論される。それでは何故ハイドンは作品77の曲集を2曲で中断してしまったのか。この作品77を注文したロプコヴィッツ侯爵はほとんど同じ頃にベートーヴェンにも弦楽四重奏曲の作曲を依頼していたと考えられる。弦楽四重奏曲の歴史に新しい頁を開くベートーヴェンの6曲からなる作品18の曲集はやがてロプコヴィッツ侯爵に献呈されるが、ランドンの見解によれば、そのうち少なくとも2曲はハイドンの作品77の曲集と同じ1799年に作曲され、翌年の12月までに全6曲が完成し、ウィーンの貴族のサロンで演奏されていると推論している。このベートーヴェンの作品群に対して「弦楽四重奏曲の最大の傑作」と賛辞を与えた貴族もいたから、当時のウィーンの社交界で話題になっていたことは十分に想像できるし、ハイドンも当然聞いていたにちがいない。こうした事情を踏まえて、ランドンはハイドンがモーツァルトのクラヴィーア協奏曲の成果を知ったのち、クラヴィーア協奏曲を作曲しなくなったのと同じように、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の登場が、ハイドンに作品77の曲集を2曲で中断させる原因になったのではないかと推論している。(1)
1799年1月作曲、ベートーヴェン(28)、弦楽四重奏曲第3番ニ長調Op.18-3
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。初稿のスケッチはピアノ・ソナタ第9番ホ長調Op.14-1とピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15とピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.19とともに1798年夏か冬に作曲が始まり、同年冬のプラハのコンサート用にそれらの曲を急いだために一時中断され、この四重奏曲の初稿は遅くとも1799年初めに完成された。(2)
1799年4月作曲、ベートーヴェン(28)、弦楽四重奏曲第1番ヘ長調Op.18-1
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。この曲の初稿はバイオリン奏者の親友カール・アメンダとの送別の記念に贈られた。この初稿の表紙には「四重奏曲第2番」のタイトルがあり、情感あふれる献辞と「1799年6月25日」の日付があり「第2番」はこの曲の作曲順を示している。ベートーヴェンは出版前の1800年夏に根本的な改作を行う。そしてアメンダに宛てて初めて自分の耳疾を告白した1801年7月1日付けの手紙でこの改作にふれている・・・「君の四重奏曲を他の人に見せないで下さい。というのは最近やっと正しい四重奏曲の書き方がわかったので書き直してしまったからです」。この初稿は1913年にアメンダ家の遺産の中から発見され、1922年に出版された(Hess32)。(2)
1804年春頃作曲、ベートーヴェン(33)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。フェルディナンド・リースはベートーヴェン自身から直接贈呈されていた交響曲第1番から第3番の3曲のオリジナル自筆譜を「友情を信じたがゆえに、ある友人に盗られてしまった」と報告している。現在、ウィーン楽友協会に所蔵される作曲者の校閲済の浄書スコアが最も重要な一次資料となっており、これは1804年8月に作成されたもので、タイトルページのナポレオンへの献辞はベートーヴェン自身による激しい筆圧のペン先で抹消されている。フェルディナンド・リース著の「伝記的注釈」では、ナポレオンが皇帝に即位したというニュースを知ったベートーヴェンは「あの男も結局は平凡な人間に過ぎなかったのだ。自己の野心のための全ての人の人権を足下に踏みにじったのだ」と激怒し、英雄交響曲の浄書譜のタイトルを抹消したとされるが、現在ではこの抹消行為は5月ではなく、ナポレオンが実際に戴冠した同年12月2日以降のことであったと考えられる。(2)
1804年5月末から6月初め頃私的初演、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸(旧演劇博物館)で私的に初演される。(2)
1806年8月末頃、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵の現在のチェコ領シレジアのグレーツの居城に滞在するため、同侯爵とウィーンを出発する。(2)
9月頃、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵と共にオーバーグロガウという町に居城を持つフランツ・フォン・オッペルスドルフ伯爵を訪ねる。滞在中にベートーヴェンは交響曲第2番ニ長調Op.36の演奏で歓迎される。(2)
10月末、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵と対立し、「熱情ソナタ」などの楽譜を携えて、雨の中単身ウィーンへ戻る。当時、チェコのシレジア地方は西ヨーロッパ名から当方地域へ向かう交通の要衝に当っており、フランス軍の進撃路、補給路になっていた。ある日、館に立ち寄ったフランス軍将校を親フランス派のリヒノフスキー侯爵は愛想よくもてなし、ベートーヴェンのピアノ演奏で場を盛り上げようとしたのであろう。しかし、ベートーヴェンにとって人に演奏を強要されることほど嫌なことはなかった。応じようとしない彼に侯爵は冗談交じりに脅迫的な言葉を口にしたらしい。かっとなったベートーヴェンが椅子をつかんで侯爵になぐりかかろうとしたところを、仲裁に入った人がいてあやうくことなきを得た。しかし、憤然と部屋を飛び出したベートーヴェンは激しい雨の中をウィーンに帰ってしまう。ベートーヴェンがリヒノフスキー邸を飛び出したとき、その旅行鞄の中には「アパッショナータ」の手稿一そろいが入っていた。(3)
1807年2/3、ベートーヴェン(36)
ベートーヴェン、オッペルスドルフ伯爵に献呈した交響曲第4番に対し、伯爵から受領した「金500フローリン」(約500万円)の自筆署名の領収書を書く。(2)
3月、ベートーヴェン(36)
ロプコヴィッツ侯爵邸でベートーヴェンの作品だけで構成された2回の演奏会が開かれ、4つの交響曲、ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58、コリオラン序曲Op.62などが演奏される。(2)
3月私的初演、ベートーヴェン(36)、交響曲第4番変ロ長調Op.60
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸で行われた演奏会で初演される。後にシューマンはこの曲を北国の2人の巨人(交響曲第3番と第5番)に挟まれた清楚可憐なギリシャの乙女と評する。ベートーヴェンは交響曲第2番を愛好するオッペルスドルフ伯爵の依頼で書かれたため、オーケストラ編成を英雄交響曲より縮小しているが、ベートーヴェンの常に旧作を凌ぐ規模と革新的拡大、表現力の増強を見せてきた聴衆にとって、期待を裏切ったのかもしれない。おそらくこの作品は交響曲第2番の後に来る2つの発展的方向の一つの路線を示すものであり、英雄交響曲があらゆる意味での拡大という方向での革新路線を選んだのに対し、第2交響曲の延長路線上での大躍進を示したのであろう。(2)

【参考文献】
1.中野博詞著、ハイドン復活(春秋社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)
3.青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)

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