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音楽史年表記事編47.ベートーヴェン、交響曲第5番ハ短調と合唱幻想曲

 ベートーヴェンは交響曲第5番ハ短調を1803年から08年の長い期間をかけて作曲しています。ベートーヴェンは中期の交響曲を3曲セットの交響曲の様式で作曲しますが、第3曲目の交響曲第5番では「夫婦の愛の勝利」の壮大なフィナーレを置いています。1804年にヨゼフィーネに再開したベートーヴェンは、ロマン・ロランによって「傑作の森」と呼ばれた名曲を次々と作曲しながら、交響曲第5番の作曲を並行して行ったことになります。英雄交響曲によって新たな境地を切り開いたわけですが、さらにこれに引き続き一つの主題が全4楽章を一貫するという全く新しい様式による交響曲第5番に取り組みます。
 ベートーヴェンとヨゼフィーネは相思相愛の仲でしたが、結局は結ばれることはありませんでした。それは、2人の想いが離れたということではなく、ヨゼフィーネがダイム伯爵との間に生まれた4人の子供たちが貴族としての地位を失うことに逡巡し、子供たちのことを考えベートーヴェンとの関係をあきらめたようです。当時の法律では貴族の女性が平民と結婚すれば貴族の地位を失うとされていました。1808年8月、ヨゼフィーネは自身のために作曲された交響曲の初演を聴くことなく、2人の子供と姉のテレーゼとともにスイスの教育者を訪ねる旅に出ます。
 ベートーヴェンはヨゼフィーネのために作曲した交響曲第5番ハ短調の初演を壮大なフィナーレで締めくくろうとしたものと考えられますが、結局これは叶わないことになり、新たなフィナーレのために合唱幻想曲ハ短調Op.80を急遽作曲します。

クフナー作詞「合唱幻想曲」ハ短調Op.80
・・・魅惑的で甘くて愛らしいのは、私たちの人生のハーモニーの共鳴であり、美しさへの意識は永遠に咲く花を生みます。・・・
 恐らく、ベートーヴェンはボン大学のシュナイダー教授の言葉を思い出し、合唱幻想曲の作曲を思い立ったものと思われます・・・「人間の価値は、生まれのよさ以上のものである。真の高貴性は、精神の偉大さと心の善良さによってのみ達成される」
 交響曲第5番ハ短調は合唱幻想曲ハ短調とともに、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演されますが、演奏会は惨憺たる結果に終わったと報告されています。特に、合唱幻想曲ではオーケストラとベートーヴェンのピアノの間にズレが生じ、ベートーヴェンの怒号がホールに響き渡り、演奏は中断するという前代未聞の事態となりますが、繰り返さないはずの繰返しを行うというベートーヴェン自身のミスによるものであったとされています。
ベートーヴェンはこの件以降、ざんげ聴聞僧エルデーディ夫人に手紙で「苦悩から歓喜へ」と述べるようになります。

【音楽史年表より】
1807年9月、ベートーヴェン(36)
ベートーヴェン、ヨゼフィーネに手紙を書き、決断を迫る。ヨゼフィーネにとっては伯爵夫人の地位を失うだけではなく、子供たちの親権も取りあげられるような結婚には、母親のブルンスヴィク伯爵夫人をはじめ、一家一門があげて反対したのだろう。ヨゼフィーネを諦めたベートーヴェンは、その傷心を彼のざんげ聴聞僧であるエルデーディ夫人の下に持ち込んだものと思われる。(1)
1808年3月頃~夏に作曲完成、ベートーヴェン(37)、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67
交響曲第5番を完成する。この交響曲は最終的にはフランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵およびアンドレアス・ラズモフスキー伯爵に献呈される。1803年から5年間の推敲を重ね、主に1807年に作曲を行う。いわゆる運命動機による主題は、ソナタ形式主要主題としては前代未聞の音型である。しかし、革新性はわずか4音によるこの主題にあるのではなく、この動機を後続するすべての楽章に用いたことにある。全楽章の有機的統一と一貫性こそがこの作品のもつ最大の特徴である。(2)
夏、ベートーヴェン(37)
ベートーヴェンとの恋愛は悲劇として幕を閉じることとなったが、ヨゼフィーネはその後母親としての使命に生きようと決心したように見える。1808年8月息子たちに理想的な教育を受けさせようと次男のフリッツ(7歳)と3男のカール(6歳)を連れ、その夏カールスバートにいた姉のテレーゼに同道を依頼して長い旅に出る。彼らが到着したのは著名な教育者ペスタロッツィのいるスイスのイヴェルトンであった。ここで姉妹はエストニア出身の男爵クリストフ・シュタッケルベルクと出会って、彼を家庭教師に迎える。一行5人はスイスからイタリア各地をめぐり、翌1809年6月ウィーンに着く。(1)
12/22、ベートーヴェン(38)
ベートーヴェン、アン・デア・ウィーン劇場で自主演奏会を開き、交響曲第6番「田園」、交響曲第5番、ピアノ・合唱とオーケストラのための幻想曲(合唱幻想曲)を初演、またピアノ協奏曲第4番の公開初演を行ったほかミサ曲ハ長調抜粋などを演奏する。練習不足、ベートーヴェンと楽団員との不和などのため演奏は混乱の連続であった。(2)
12/22初演、ベートーヴェン(38)、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会で初演される。(2)
12/22初演、ベートーヴェン(38)、ピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」Op.80
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会で初演される。演奏は途中でズレが生じたため中断し、ベートーヴェンの怒号がホールに響き渡るという惨憺たる失敗に終わる。演奏が中断した後、曲は冒頭から再び開始されたという。バイエルン王マクシミリアン・ヨーゼフに献呈される。(2)
【参考文献】
1.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)

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