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音楽史・記事編127.ウィーン王宮前のミヒャエルハウス

 ウィーン王宮前のコールマルクトの入口にミヒャエルハウスと呼ばれるアパートメントがあり、ここの3階にはウィーン宮廷詩人でありオペラ界の巨人メタスタージョが50年にわたって居住し、エステルハージ家に雇用される前の若きハイドンが5階の屋根裏部屋に居住し、ベートーヴェンが亡くなった後の1830年にはショパンがウィーンを訪れ、ミヒャエルハウスの4階に8ヶ月間投宿し、その後パリを目指しますが、シュツットガルトでワルシャワ武装蜂起の失敗とロシアのワルシャワ占領を知り、奈落の底に落とされ、作品10の練習曲第12番ハ短調「革命」が作曲されたとされます。

〇宮廷詩人メタスタージョ、バロックオペラから古典派オペラへ導く
 イタリアのローマに生まれたメタスタージョは、1730年皇帝カール6世から宮廷詩人に任命され、ウィーンの王宮前のミヒャエルハウスの3階(ヨーロッパ式では2階)に居住し、1782年まで50年にわたりウィーンの巨匠として君臨し、メタスタージョによる台本により多くのオペラやオラトリオが作曲されます。メタスタージョはバロックオペラから喜劇的要素を排除し、オペラセーリアの様式を確立したとされ、古典派期からロマン派期初期にはオペラはオペラセーリアとオペラブッファの2つの分野によって創作されて行きます。1770年14歳のモーツァルトはイタリアへ渡り、ミラノでフィルミアン伯爵からオペラ作曲家には必携のメタスタージョ著作集を贈られます。モーツァルトはイタリアのマントヴァでハッセの「デメトリオ」を、クレモナではヴェレンティーニの「皇帝ティートの慈悲」などのオペラを観劇していますが、これらはいずれもメタスタージョの台本によるものでした。この後モーツァルト自身もメタスタージョの台本によるオラトリオ「救われたベトーリア」K.118や祝典劇「シピオーネの夢」K.126、歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621の他、多くのメタスタージョの著作を台本とするアリアを作曲しています。

〇ヨーゼフ・ハイドン、古典派音楽の基礎を作る
 1749年17歳のヨーゼフ・ハイドンは変声期を迎え少年聖歌隊を辞し、聖歌隊寮からミヒャエルハウスの5階の屋根裏部屋に引っ越します。3階にはオペラセーリアの台本作家メタスタージョが住んでおり、ハイドンはメタスタージョの紹介でナポリ出身の作曲家ポルポラのもとで音楽修行する機会を得ます。ハイドンは独学でフックスの対位法やエマヌエル・バッハのクラヴィーア奏法理論を習得したとされますが、ハイドンはポルポラのもとで「真の作曲の基礎」を学んでいます。また、ミヒャエルハウスの4階にはローマ教皇大使館の侍従のマルティネス一家が住んでおり、ハイドンはマルティネスの娘のマリアンナに歌とクラヴィーアを教えています。さらに、2階にはパウル・アントン・エステルハージ侯爵の母であるマリア・オクタヴィア侯爵夫人の住まいがあり、ハイドンとエステルハージ家の縁がここにあったのかもしれません。(1)

〇ショパンがウィーンのミヒャエルハウスに投宿する
 1829年、ワルシャワの高等音楽学校を卒業したショパンは友人たちとウィーンへ旅行し、ケルントナートーア劇場で演奏会を開き、ピアノとオーケストラのためのモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」のアリア「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ」による変奏曲変ロ長調Op.2やピアノとオーケストラのための「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」ヘ長調Op.14などを演奏し、オペラ劇場でロッシーニの「シンデレラ」やボイエルデューの「白衣の貴婦人」などを観劇し、チェルニーなどの音楽関係者と知り合っています。
 ショパンはワルシャワ音楽学校ではピアニスト、作曲家として天才的と評価され、その能力を発揮するためにはワルシャワのような田舎の小都市ではもの足りなくウィーンのような大都市がふさわしいと考えており、政治的な目的はなかったとされます。そしてウィーン旅行の翌年の1830年に、ショパンは親友のティトゥスとともに再びウィーンを目指します。しかし、ウィーンに到着した翌月にはワルシャワでの武装蜂起の知らせが届き、ティトゥスはポーランドで戦うため帰国します。ショパンはウィーンの王宮前のミヒャエルハウスの4階を住居とし、約8ヶ月の間ウィーンに孤独に滞在することになり、愛国心に目覚めたショパンはこのウィーンでマズルカなどの民族的な作品を作曲するようになります。中部ヨーロッパに位置するウィーンは多くの民族が混在する都市でしたが、音楽に関しては厳しい論評にさらされ、ウィーンでの暮らしに見切りを付けたショパンは1831年7月パリを目指し、パリへ向かう途中シュツットガルトでポーランド独立軍がロシアに敗れ、ワルシャワがロシア軍に占領されたとの報に接し、愛国心に目覚め奈落の底に落とされたショパンは代表作となったピアノのための作品10の練習曲の「革命」ハ短調が作曲されたとされます。パリにはワルシャワからの亡命者たちが集まり、ショパンは2度と祖国の地を踏むことはなく、ポーランドの民族色にあふれた名曲を作曲して行きます。

【音楽史年表より】
1827年作曲、ショパン(17)、ピアノとオーケストラのためのモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」のアリア「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ」による変奏曲変ロ長調Op.2
この変奏曲の主題はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」第1幕第7曲のドン・ジョバンニとツェルリーナが歌う二重唱「さあ、お互いに手を取り合い、ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ」による。親友のティトス・ヴォイチェホフスキに献呈される。シューマンは自らが編集者をつとめる「音楽新報」にこの作品について「ショパン、だれだろう、とにかく天才だ」と、絶賛し、歌劇の場面を詳しく思い浮かべながらショパンの音楽をたたえた。(2)
1827年3/26、ベートーヴェン(56)
ベートーヴェン死去する。(3)
1828年作曲、ショパン(18)、ピアノとオーケストラのための「ポーランド民謡による大幻想曲」イ長調Op.13
第1部の主題はポーランドの人にとってはなじみ深い民謡「すでに月は沈ずみぬ」で、その旋律をピアノとオーケストラが美しく装飾していくが、原曲の透明感を失うことはない。(2)
1828年作曲、ショパン(18)、ピアノとオーケストラのための「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク」ヘ長調Op.14
1834年パリのシュレジンガー社から出版され、チェルトリスカ公爵夫人に献呈される。チャルトリスカ公はポーランド革命政府を率いたが、ロシアのワルシャワ占領でフランスへ亡命し、セーヌ川のノートルダム寺院の東のセントルイス島の端のランベール館に住んだ。ショパンはたびたびここを訪れたが、月曜日に開かれる恒例のサロンでは夕べの音楽を演奏したり、亡命ポーランド人救済のためのチャリティ舞踏会で演奏したりした。(4)(2)
9/12、ショパン(18)
ショパン、ベルリンに到着する。ショパンはワルシャワの父の友人で動物学者フェリス・ヤロツキがベルリンでの国際会議に招待され、はじめて外国へ行く機会を得る。ベルリン滞在2週間の間にショパンは、ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」、チマローザのオペラ「秘密の結婚」などを見る。ヘンデルのオラトリオ「聖セシリアの祝日のためのオード」HWV76を聴いて、これこそ自分が理想と考える音楽だと書いている。オペラが大好きなショパンはワルシャワでも、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、モーツァルトなどのオペラ上演には必ず足を運んでいた。(2)
1828年11/19、シューベルト(31)
シューベルト、午後3時、永眠する。(5)
1830年11/2、ショパン(20)
ショパン、友人ティトゥスと共にワルシャワを発つ。(2)
12月、ショパン(20)
ショパン、ワルシャワで武装蜂起が起こったことを知る。ティトゥスは帰国する。(2)
1831年4月、ショパン(21)
ショパン、ウィーンのレドゥーテンザールの慈善演奏会に出演する。(2)
7/20、ショパン(21)
ショパン、クメルスキとともにウィーンを出発する。(2)
8/28、ショパン(21)
ショパン、ミュンヘンのフィルハーモニック・サンデーマチネーに招待されピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11、ピアノとオーケストラのための「ポーランド民謡による大幻想曲」イ長調Op.13を演奏する。(2)
9月、ショパン(21)
ショパン、シュツットガルトに到着、ロシア軍によるワルシャワ占領を知る。(2)
ポーランド蜂起が鎮圧され、革命派の多くはパリに亡命する。(6)
9月作曲、ショパン(21)、12の練習曲作品10・第12番ハ短調「革命」Op.10-12
革命のエチュードとして知られる。カラソフスキーによればショパンは1831年故国を後にしてパリにのぼる途中、シュツットガルトでワルシャワへロシア軍が侵入した報知に接して、悲憤慷慨のあまりに書いた曲だという。その確証はないが、確かに曲はそれを裏付けるような内容を示している。(4)
9月末、ショパン(21)
ショパン、パリに到着する。(2)

【参考文献】
1.池上健一郎著・作曲家・人と作品シリーズ ハイドン(音楽之友社)
2.小坂裕子著、作曲家・人と作品シリーズ ショパン(音楽之友社)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・ショパン(音楽之友社)
5.村田千尋著、作曲家・人と作品シリーズ シューベルト(音楽之友社)
6.ワーグナー事典(東京書籍)

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