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音楽史・記事編138.讃歌、グレゴリオ聖歌の成立、聖堂の建設と音楽史

 本編ではキリスト教成立以降、ローマ帝国の盛衰等の激動のヨーロッパにおけるゲルマン人の侵攻のなかでのローマ・カトリック教会の各地域へのキリスト教の普及の一環としての聖堂、大聖堂の建設、それに伴う巨大なオルガンの設置、聖堂における聖歌の普及、グレゴリオ聖歌の成立、ノートルダム楽派の誕生等の音楽史を見て行きます。

〇キリスト教とゲルマン民族の侵攻
 キリスト生誕後、キリストによる教義はキリストの弟子や伝道者たちによって伝道が行われ、早くも紀元180年頃にはギリシャ語で書かれた新約聖書が成立したとされます。313年にはローマ帝国がキリスト教を公認、392年にはローマ帝国はキリスト教を国教として異教を禁止し、この時期、ローマ帝国は領土を広げ、ヨーロッパ、イギリス、地中海全域からエジプトから紅海方面、黒海沿岸からペルシャ湾にまで拡大するものの、肥大した領土によって相対的には軍事力を落としたように見られます。軍事力に優れたスカンジナビア方面のゲルマン民族はおそらく豊富な水産資源により人口が増加し、温暖なヨーロッパ南部を目指し民族の大移動を始め、378年ゲルマンのゴート族はコンスタンチノーブル近郊のハドリアノポリスでローマ皇帝軍と戦い、ローマ軍は惨敗し参戦していた皇帝ウァレンスが戦死し、この敗戦が原因となり、ローマ帝国は395年に東西分裂することとなったとされます。ゴート族に続き、ブルグント、ランゴバルト族などがローマ帝国内に王国を築き、451年の遊牧民のフン族の侵攻はローマ帝国軍とゲルマン族の連合軍によって打ち破ったものの帝国としての軍事力は急速に低下し、476年には西ローマ皇帝は皇帝位を東ローマに委譲し、西ローマ帝国は滅亡します。皇帝を失った西ローマはゲルマンによって建国された王国の勢力が強まり、これに対してローマ・カトリック教会はキリスト教の旧帝国内への普及・浸透によってローマ人による体制維持を図ったように思われます。

〇キリスト生誕以降の音楽史
 キリスト生誕以降、急速に信仰の普及が進められ、それに伴いヒメヌスと呼ばれる聖歌が歌われるようになったようです。フランスの音楽学者マルセル・ブノワ他著、岡田朋子訳の西洋音楽史年表(1)、橋爪大三郎、大沢真幸共著、不思議なキリスト教(2)によれば・・・
28年・・イエスの伝道が開始される。
30年頃・・イエスが処刑される。
51年から57年・・パウロが伝道を行う。
70年・・エルサレルムが滅亡する。
1世紀・・初期キリスト教会でヒメヌス(讃歌または聖歌)が歌われていることが確認される。
150年頃・・プトレマイオスのハルモニア論や二コマコスのハルモニア教書など、ピタゴラスや古代ギリシャの基本音律の理論書が著される。
180年頃・・新約聖書が成立する。
200年頃・・キリスト教音楽で「サンクトゥス」と「グロリア」の短い歓呼が現れる。
280年頃・・この時代の「三位一体に捧ぐヒメヌス」が発掘される。
360年頃・・フリギアに亡命した聖ヒラリオがヒメヌスを作曲する。
381年・・コンスタンチノーブル公会議で三位一体説が正統教義となる。
382年・・ミサ法典がラテン語に翻訳される。
392年・・ローマ帝国はキリスト教を国教とし、異教を禁ずる。
395年・・ローマ帝国が東西に分裂する。
397年以前・・ミラノの司教アンブロジウスがミラノ式典礼および典礼聖歌を創始する。
405年・・ギリシャ語の新約聖書がラテン語に翻訳される。
430年・・コンスタンチノーブルでは独唱と全体が交互に歌う聖三祝文が歌われる。
476年・・西ローマは皇帝位を東ローマに委譲し、滅亡する。
529年・・「キリエ」と「サンクトゥス」がミサで歌われるようになる。
701年・・教皇セルギウス1世がローマ典礼に「アニュス・デイ」を導入する。
800年・・フランク王国のカール大帝がローマ皇帝を戴冠し、西ローマ帝国が復活する。
・・・・
 キリスト教はエルサレムからギリシャ、ヨーロッパに向けて急速に浸透し、382年にはギリシャ語のミサ法典がラテン語に翻訳され、392年にはローマ帝国はキリスト教を国教に定め、また4世紀ころまでにはイタリアやヨーロッパ、イギリスの各地にキリスト教の聖堂、教会が建てられ、これらの聖堂では典礼ミサが行われ、キリスト讃歌や聖歌が歌われていたようです。

〇フランク王国が拡大し、相続によって3分割され、現在のヨーロッパの原型ができる
 5世紀後半にはゲルマン人の部族フランク人がフランス北東部からフランドルの地域にフランク王国を建国します。フランク王国は徐々に領土を拡大し、カール大帝のころには現在のフランス、イタリア、ドイツのほぼ全域を手中に収め、800年にはカール大帝はローマ教皇からローマ皇帝を戴冠し、西ローマ帝国の復興が果たされます。また、カール大帝は786年にはフランク王国の都であるアーヘンに大聖堂の建設を始めています。4世紀にはローマにカトリック教会の総本山として巨大なサン・ピエトロ大聖堂が建設されており、カール大帝は北の大聖堂としての役割を担うという政治的な目的があったようにも思われます。この時代のヨーロッパでは分割相続が行われており、カール大帝の後のローマ皇帝となったルートヴィヒ1世は巨大化したフランク王国を3人の息子たちに分割し相続し、3つの王国が誕生し、これが現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型となります。長男のロタール1世はローマ皇帝を引き継ぎ現在のイタリアとフランスからドイツにまたがるロタリンギア、フランス南東部のブルグントを領有する中部フランク王に、次男のルートヴィヒ2世は東フランク王としてドイツ王に、異母弟のシャルル2世(禿頭王)は西フランク王としてフランス王となります。カール大帝の出身地のドイツ、フランスの間に挟まれた地域はロタール1世が治めたことからロタリンギアと呼ばれ、後にドイツではロートリンゲンにフランスではロレーヌと呼ばれるようになります。なお、カール大帝の3男ルートヴィヒ1世は、フランスではルイ1世と呼ばれ、以降ルイを引き継ぐフランス王が誕生して行きます。ちなみにカールはフランスではシャルルとなり、シャルル2世は祖父のカール大帝の名を引き継いでいるようです。

〇東フランク王国のオットー大帝はイタリアを制圧し、神聖ローマ帝国を創る
 フランク王国のルートヴィヒ1世によりフランク王国は3分割されたものの、東フランク王国と西フランク王国の対立は深まり、870年メルセン条約よりロートリンゲンの西1/3とブルグントの西1/3が西フランクに割譲され、ロートリンゲンの東2/3が東フランクに、ブルグントの東2/3がイタリアへ割譲される。また、東フランク王国のザクセン公ハインリヒ1世は919年ドイツ王となり、フランク王国で行われてきた分割相続を廃止し、永続的な国家領域を形成する基礎を築き、ハインリヒ1世の子のオットー1世(オットー大帝)は951年にイタリアを制圧統合し、962年には皇帝位につき、初代の神聖ローマ皇帝となります。

〇大聖堂の建設とオルガンの設置
 現在でもフランス、ドイツ、イギリスには壮麗な大聖堂が威容を誇っていますが、これらの大聖堂建設の歴史と大聖堂に設置された巨大なオルガンの歴史を見て行きます。

 地中海沿岸の東部で伝道が始まったキリスト教は徐々に西に広がり、各地に伝道のための聖堂が建設され、総主教座が置かれたコンスタンチノープルとローマには4世紀頃には大聖堂が建設されたようで、ローマ・カトリック教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂はこの頃に建設されたとされます。フランス、イタリア、ドイツを統一したフランク王国のカール大帝は786年に王国の首都であるアーヘンに、イタリア以北では最古となる大聖堂の建設を始めています。当時ローマ皇帝はローマにおいてローマ教皇から戴冠されていましたが、各王国では国王の戴冠式を行う必要があり、大聖堂の建設が進められていったようです。9世紀にはパイプオルガンが再興され、これらの大聖堂に設置され式典時には壮大な音楽を奏でたことが伺えます。アーヘンの大聖堂では1531年までの600年間に30人の神聖ローマ皇帝の戴冠式が執り行われています。11世紀にはロンドンでウェストミンスター寺院の建設が行われ、12世紀にはイングランド南部および北部の教区のカンタベリーとヨークの大聖堂が完成しています。フランスでは1163年にパリのノートルダム大聖堂の建設が始まり、続いてシャルトル、ルーアン、ランスなどの諸都市に大聖堂が建設されて行きます。また、ドイツでは神聖ローマ帝国の成立に伴い、ケルン大司教がイタリア大宰相に、トリーア大司教がブルゴーニュ大宰相に、マインツ大司教がドイツ大宰相に就いていたようで、これらの官位は後の選帝侯に引継がれたものと見られます。ケルン大聖堂は1248年から建設が始まり、マインツ大司教の大聖堂であるフランクフルト大聖堂では1531年以降の神聖ローマ皇帝の戴冠式が執り行われるようになっています。ウィーンでは1294年から1359年にシュテファン大聖堂が建設され、プラハでは1344年にプラハ城内の教会跡地に聖ヴィート大聖堂が建設されています。このように大聖堂の多くがドイツ北部、フランス北部、イングランドに建設されており、これらの大聖堂にはパイプオルガンが設置されており、特に北ドイツでパイプオルガンによるトッカータ、フーガなどの作曲が行われるようになったものと見られます。

〇グレゴリオ聖歌の成立とノートルダム楽派の勃興
 グレゴリオ聖歌は教皇グレゴリウス1世(540年~604年)が編纂したと長く信じられてきましたが、現在ではカール大帝のカロリング朝の時代(768年~814年)にローマとガリア(フランス)地方の聖歌が統合されて成立したものと考えられているようです。単旋律(モノフォニー)のグレゴリオ聖歌はネウマ譜を用いて記譜され、このネウマ譜は16世紀には現代の五線譜に発展したとされます。グレゴリオ聖歌は中世以降の複数の声部を重ねる様式のポリフォニーの発展に重要な役割を果たし、14世紀から16世紀のルネサンス期にはポリフォニーのミサ曲の作曲が全盛期を迎えたとさています。
 14世紀にはフランスに音楽史上初めて名を残す作曲家ギョウム・ド・マショーが現れます。マショーらの作曲家は聖母教会(ノートル・ダム)のために作曲したことからノートル・ダム楽派と呼ばれています。ランスに生まれたマショーはボヘミア王に仕えイタリア、ポーランド、リトアニアなどを回り、後生はフランスで活躍したとされます。

【音楽史年表より】
1350年頃作曲、マショー(50歳頃)、器楽と4声部のためのミサ「ノートル・ダム」(聖母のミサ曲)
ランスのノートル・ダム大聖堂(聖母大聖堂)のために作曲される。ギョーム・ド・マショーは14世紀フランスにおける最大の作曲家であるばかりではなく、聖職者、政治家、数学者、詩人としても活躍した才人である。(3)
マショーの作品で最も規模の大きいもので、ひとりの作曲家がミサ曲を構成する6つの曲を一貫性をもって作曲した史上初めての例である。このミサ曲はシャルル5世の戴冠式で演奏されたという通説があるが、確証はない。(1)
1350年頃作曲、マショー(50歳頃)、器楽と3声部のためのモテット「美よりも美しく-得がたき美よ-恋人を」
テノールの定旋律は世俗的なシャンソンが歌われる。(3)
1350年頃作曲、マショー(50歳頃)、器楽と3声部のためのシャンソン「わが終りはわが始まり」、(3)
1363年11/3作曲、マショー(63歳ころ)、器楽と4声部のためのシャンソン「テセウスと-見たいとは思わぬ」
上の2声部には異なる歌詞が付された2重バラード。(3)

【参考文献】
1.マルセル・ブノワ、ノルベール・デュフルク、ベルナール・ガニュパン、ピエレット・ジェルマン共著、岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)
2.橋爪大三郎、大沢真幸共著・ふしぎなキリスト教(講談社)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)

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