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音楽史・記事編126.旧ウィーン大学講堂

 ベートーヴェンはアン・デア・ウィーン劇場の支配人であったシカネーダーと契約し、アン・デア・ウィーン劇場内に住居も提供されて、作曲活動を行っていました。契約ではアン・デア・ウィーン劇場での新作の上演が義務とされ、ベートーヴェンは交響曲第3番変ホ長調「英雄」の公開初演を行い、さらに歌劇「フィデリオ」(初稿)およびその改訂稿を初演します。しかし、「フィデリオ」改訂稿初演では当時の興行主のブラウン男爵と衝突し、その後交響曲第5番ハ短調、交響曲第6番ヘ長調「田園」を初演していますが、これらは劇場との契約義務によるものと思われます。これ以降ベートーヴェンは交響曲第7番イ長調を旧ウィーン大学講堂で、交響曲第8番ヘ長調をウィーン王宮の大レドゥーテンザールで、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」をケルントナートーア劇場で初演しています。

〇ベートーヴェン・交響曲第7番作曲の動機
 ベートーヴェンはこの時期、ピアノソナタや交響曲において従来のソナタ形式における主題動機の展開・彫琢から、いわゆるカンタービレ様式に作曲様式を変化させています。一般にはこの時期にベートーヴェンは新たな作曲様式を追求して新たな新機軸を見出したとの解説がされていますが、新しい作曲様式を追求したから作曲様式が変化したとは思われません。ベートーヴェンがテレーゼのためのピアノソナタ第24番嬰ヘ長調やリズムの神化の交響曲第7番イ長調など、新たな作曲様式で作曲した真の動機は何か。
 62.ベートーヴェン・交響曲第7番イ長調114.ベートーヴェンとテレーゼ・ブルンスヴィクをご参照ください。

〇交響曲第7番と「ウェリントンの勝利」初演
 1813年12/8、ベートーヴェンは交響曲第7番イ長調と「ウェリントンの勝利」を旧ウィーン大学講堂で初演し、この演奏会は熱狂に包まれ大成功を収めます。この演奏会はハーナウ戦役傷病者のための慈善演奏会として行われ、同年6月にウェリントン将軍が率いるイギリス軍がスペイン北部のヴィットリアでナポレオン軍に勝利し、この戦いを契機にナポレオン体制は崩壊します。ベートーヴェンは、機械技師のヨハン・ネポムク・メルツェルから依頼を受け、この戦勝を記念し、大型自動演奏装置パンハルモニコンのための「ウェリントンの勝利」を作曲します。そして慈善演奏会のための管弦楽版が編曲され初演されました。舞台ではオーケストラの他に、イギリス軍とフランス軍の軍楽が2つに分かれ舞台の両端に配置され、ステージ外には空砲による機関銃と大砲が配置され、楽隊の大太鼓はフンメルが受け持ち、宮廷楽長サリエリは機関銃と大砲による一斉射撃の合図を受け持ったとされます。また、シュパンツィッヒやシュポーア、ジュリアーニなどのウィーンの音楽家がオーケストラに加わっていました。オーケストラは舞台の左右に2つのオーケストラとして分かれて配置され、軍楽はステージ外に配置されたとの説もあります。第1部ではイギリス軍が行進曲「ルール・ブリタニア」で進軍し、フランス軍は行進曲「マールボロ」の演奏とともに迎撃し、激しい戦闘が始まります。第2部では「勝利の交響曲」としてイギリスのウェリントン軍の勝利でイギリス国家「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」が用いられ、現代の演出では考えられないステージ外の華々しい機関銃と大砲の空砲による効果により、観客はその迫力に圧倒され客席は興奮の坩堝と化したようです。ベートーヴェンはこの曲を芸術作品ではなく描写音楽のようなものとして軽く作曲したように見受けられますが、後の交響詩を先取りするようなこの作品はたいへんな評価を受け、この作品の成功により、ナポレオン後のヨーロッパ体制を検討するウィーン会議に向け、ベートーヴェンに歌劇「フィデリオ」最終稿作曲の機会が巡ってくることになります。なお、この「ウェリントンの勝利」は1880年に作曲されたチャイコフスキーの序曲「1812年」の先駆けとなりました。

〇フンメルはゲーテとベートーヴェンの間でどう行動したか。
 ハンガリーに生まれたフンメルは神童として6歳でウィーンのモーツァルトのもとに弟子入りし、現存するモーツァルトハウスに2年間寄宿しモーツァルトにクラヴィーアを学んでいます。その後、モーツァルトのように父親とともにヨーロッパ各地を巡り、1804年にはエステルハージ家の音楽家として雇われ、ハイドン引退後には宮廷楽長となり、その後シュツットガルトを経てゲーテが閣僚を務めるワイマールの宮廷楽長となります。ウィーンではベートーヴェンと親交を持ち、交響曲第7番イ長調の初演にも参加し、ベートーヴェンの臨終の折には見舞いに訪れています。フンメルはゲーテとベートーヴェンの関係について、ベートーヴェンにゲーテについて話したとか、一方ゲーテにベートーヴェンのことを報告したとかといった記録が残されていません。ベートーヴェンとゲーテはお互いに尊敬し敬愛していましたが、フンメルは恐らくゲーテが幼いころから可愛がっていたフランツ・ブレンターノとその妻でベートーヴェンの不滅の恋人となったアントーニアの件で、ゲーテがベートーヴェンとブレンターノ家の人々を不幸にしたくないとの思いから沈黙を守ったことを理解し、この件について触れなかったのではないかと思われます。ベートーヴェンもゲーテの想いを察し、フンメルにゲーテについて尋ねなかったものと見られます。

【音楽史年表より】
1811年8月初め、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、ボヘミアのテープリッツへ移る。(1)
9/16、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、行動を共にしてきた友人兼秘書役のオリヴァを、なぜか急に一人でウィーンへ帰らせる。(2)
9/18、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、テープリッツを出発、プラハを経て、シレジア地方のグレーツへ向かう。一人でテープリッツを発ったベートーヴェンは、途中プラハあたりでアントーニア・ブレンターノ、ネフツェル一行と落ちあい、以後の行動を共にしたのではないか。この仮説はネフツェルにもアントーニアにも、シレジアがゆかり深い土地であることが判明した以上、説得力あるものとなったが、まだ確証はえられていない。(2)
9月末、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、シレジアのグレーツでミサ曲ハ長調Op.86を上演する。(1)
10月初旬、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、ウィーンへ戻る。(1)
11月頃、ベートーヴェン(40)
交響曲第7番イ長調Op.92の作曲に着手する。(1)
1812年5/13、ベートーヴェン(41)、交響曲第7番イ長調Op.92
ベートーヴェン、イ長調交響曲をほぼ完成する。(1)
5月末か6月初め、ベートーヴェン(41)
財政的に行きづまり夫婦間で争いが絶えなくなっていたヨゼフィーネとシュタッケルベルクは5月末か6月初めに決定的な対立が訪れ、シュタッケルベルクは12月まで行方をくらましてしまう。ヨゼフィーネは30室もある広大なダイム邸に6人の子供と共に残され、信じられないほどの貧窮に直面することになった。(2)
6/27あるいは6/28、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、ダイム伯爵邸のヨゼフィーネを訪問する。ヨゼフィーネはシュタッケルベルクと再婚していたが、シュタッケルベルクはダイム伯爵の遺産を使いつくし、ヨゼフィーネをウィーンに残し、エストニアに引きあげていた。ヨゼフィーネは生活費にもこと欠く状態でベートーヴェンは約2000フローリンを持参したものとみられる。(2)
6/29、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、早朝4時にウィーンを出発し、テープリッツへ向かう。(1)
7/5、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、シュランでアントーニア一行と別れ、夜を徹してテープリッツへ向かい、7/5早朝に到着する。(2)
7/6~7/7、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、カールスバートのアントーニアへ「不滅の恋人への手紙」3通を書き送る。ベートーヴェンは第1信発信後にアントーニアがプラハでベートーヴェン宛に送った手紙を受け取る。(2)
7/19、ベートーヴェン(41)
ゲーテ、ベートーヴェンを訪問し初めて両巨匠が会合する。ゲーテはカールスバートにいる妻クリスティアーネにベートーヴェンを称賛する手紙を書き送る・・・「私はこれまで、これほど集中力をもち、これほどエネルギッシュで、また内面的な芸術家を観たことがない」。(2)
9/8、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、フランツェンスブルンを出発し、カールスバートに到着し、ゲーテと再会し和睦する。カールスバートにおいて両巨匠の真の迎合が実現したのであった。(3)
9/22、ベートーヴェン(41)
テレーゼ・ブルンスヴィク、日記に妹ヨゼフィーネについて記す・・「妹ヨゼフィーネが宿した子どもを、生まれたあかつきには、気高い厳粛な気持ちで子どもに備わる神性を何もそこなわないように自分が養育しよう」・・(2)
9/23頃、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、運命の一撃を受け、歓喜の絶頂から生涯最大の絶望の淵へ突き落される。この頃から日記を付けはじめたものと思われる。日記の第1ページは「服従、おまえの運命への心底からの服従・・・おお、きびしいたたかい」で始まり、「こうして、Aとのことはすべて崩壊にいたる・・・」で終わっている。(3)
・・・
1813年1月、ベートーヴェン(42)、交響曲第7番イ長調Op.92
完全な形に整えられ、全曲を完成する。モーリッツ・フォン・フリース伯爵に献呈される。様式転換期に生まれたこの作品は「運命」や「田園」とは全く異質な様相を呈する。主題の旋律形態を主張すべく、従来の動機労作を放棄し、カンタービレな性格を打ち出す方向をとる。このイ長調交響曲を特徴づけるのは「リズム動機法」であり、4つの楽章はそれぞれに固有なリズムで特徴づけられ、楽曲にとって重要な要素としてリズムが前面に押し出される。(1)
6/21、ベートーヴェン(42)
ウェリントン将軍率いるイギリス軍が、スペイン北部ヴィットリアでナポレオン軍に勝利を収める。(1)
12/8、ベートーヴェン(42)
ベートーヴェン、ウィーン大学講堂で行われたヨハン・ネポムク・メルツェル主催の演奏会で交響曲第7番イ長調Op.92、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」の初演を指揮する。この演奏会ではシュパンツィヒがコンサートマスターを務めたほか、管弦楽にはシュポーア、フンメル、サリエリなど当時のウィーンの名だたる音楽家が多数参加した。演奏会は大成功を収めた。(1)
12/8、ベートーヴェン(42)、交響曲第7番イ長調Op.92
ウィーン大学講堂で、ハーナウ戦役傷病兵のための救援資金調達慈善演奏会で、ベートーヴェンの指揮で初演される。初演は好評で第2楽章はアンコールされた。(1)
12/8、ベートーヴェン(42)、ウェリントンの勝利(戦争交響曲)Op.91
ウィーン大学講堂で、ハーナウ戦役傷病兵のための救援資金調達慈善演奏会で、オーケストラ版の初演が行われる。この曲はイングランド摂政皇太子、後の国王ジョージ4世に献呈される。この作品は本来はウィーン宮廷付き機械技師のヨハン・ネポムク・メルツェルが考案したパンハルモニコンという大型自動演奏装置のために書かれたが、同時にオーケストラでの演奏も可能な楽譜も作成されていた。メルツェルはオルガン製作者の家に生まれ、メトロノームの考案者としても知られる。なお、難聴のベートーヴェンのために数種類の補聴器を考案作成したのは弟のレーオナルト・メルツェルと言われる。(1)
2つの小さなオーケストラをステージ上で対峙配置するウェリントンの勝利Op.91では、バイオリンの主席をシュパンツィヒが、ステージ外の楽隊の大太鼓をフンメルが受け持ち、大砲(空砲)の一斉射撃の合図を宮廷楽長サリエリが受け持ち、オーケストラの中にはシュポーア、ジュリアーニ等々も加わっていた。「ウェリントンの勝利」と交響曲第7番イ長調の公開初演をメインとしたこの演奏会は空前絶後の大成功を収めた。(4)

【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
3.青木やよひ著・ゲーテとベートーヴェン(平凡社)
4.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)

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