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音楽史年表記事編62.ベートーヴェン、交響曲第7番イ長調

 1809年、ベートーヴェンはイギリスのジョージ・トムソンからスコットランドやアイルランド、ウェールズなどの歌曲集の編曲を請け負い、1820年までに約170曲の民謡による歌曲のピアノ、バイオリン、チェロによる前奏、歌曲伴奏、後奏の作曲を行っています。この歌曲集編曲のもっとも初期のアイルランド歌曲集に、交響曲第7番イ長調の第2楽章で使用される主題を持つ歌曲が現れます。
 ベートーヴェンは1811年11月頃に交響曲第7番イ長調Op.92の作曲に着手します。従来からこの交響曲の作曲動機については明らかではありませんが、ベートーヴェンはこの時期ベッティーナ・ブレンターノとの交流を通してアントーニア・ブレンターノと親しくなっており、不滅の恋人であるアントーニアとの愛の勝利を願って3曲セットの交響曲の作曲を思いついたのではないかという可能性が考えられます。ベートーヴェンにとって「夫婦の愛の勝利」をテーマとした取り組みは、歌劇「フィデリオ」、中期の3曲セットの交響曲でも試みているもののいずれも成就できず、三たびこのテーマによる交響曲を作曲しようとしたものと見られます。この時期のベートーヴェンのスケッチ帳には既に第9交響曲の主題のスケッチも現れています。なお、歌劇「フィデリオ」は1814年5/23にトライチュケの台本による最終稿が初演され、ようやく大成功をおさめています。
 交響曲第7番イ長調は中期の3曲の交響曲の第1曲の交響曲第4番変ロ長調と同様、長い序奏を伴い、ベートーヴェン自身の感情の表出の音楽となっているようです。ベートーヴェンはゲーテのミニヨンを思わせる才女ベッティーナの消息を求めて、ベッティーナの異母兄の妻アントーニアの実家であるビルケンシュトック邸を頻繁に訪れていましたが、やがてアントーニアが自身に思いを寄せていることに気づきます。序奏に続き、提示部ではホルンのファンファーレとともにアントーニアへの思いが一気に高まります。アントーニアはウィーン宮廷に仕える政治家であり学者のビルケンシュトック伯爵の長女であり、8歳で母を亡くし女子修道院で教育を受けた優美で教養豊かな女性でした。アントーニアは1798年にはフランクフルトのブレンターノ家に嫁いだもの、イタリア系の豪商であり大家族のブレンターノ家に馴染めず、ウィーンに戻っていました。(2)
 第2楽章ではベートーヴェンが編曲を行ったアイルランド民謡「どうすればこの愛を示せるのか」WoO152-6の主題が用いられます。この曲は、ベートーヴェンが病床のアントーニアを見舞い、隣室で弾いた慰めの音楽である可能性があります。ベートーヴェンはこの時期にイギリス行きについてたびたび語っていますが、ベートーヴェンはアントーニアとともにイギリスに移住することを夢見ていたとも考えられますし、アントーニアにイギリス行きについて語っていたとも考えられます。もしアントーニアがこの交響曲第7番を聴いたならば、あの慰めの音楽が第2楽章で現れ、このことについてはアントーニアのみが知り得ることであり、ベートーヴェンはこのようなことを考え作曲したのでしょう。

 交響曲第7番イ長調Op.92は1813年12/8にウィーン大学講堂で、ウェリントンの勝利(戦争交響曲)Op.91とともに初演され、フンメルやサリエリ、マイヤーベーアなどの作曲家も演奏に加わり、演奏会は空前絶後の大成功をおさめたと伝えられます。

【音楽史年表より】
1809年11/23、ベートーヴェン(38)
ベートーヴェン、イギリスのジョージ・トムソン宛ての手紙でスコットランド民謡編曲を受諾する。(1)
1809年11月~10年3月?編曲、ベートーヴェン(39)、25のアイルランド歌曲集第5曲「グレンコーの虐殺に」(第1作)WoO152-5
サー・ウァルター・スコットによる歌の編曲。トムソンは前奏が難しすぎるとして改訂を要求、第2作ははるかにやさしくなっている。なお、歌唱旋律は交響曲第7番第2楽章主題に類似している。(1)
1809年11月~10年3月?編曲、ベートーヴェン(39)、25のアイルランド歌曲集第6曲「どうすればこの愛を示せるのか」(二重唱)WoO152-6
歌詞詩人は不明。歌唱声部は交響曲第7番第2楽章を想起させる。(1)
1810年5/25頃、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノがベートーヴェンを訪問する。(2)
10月初旬以降、ベートーヴェン(39)
ベートーヴェンがベッティーナの消息を求めてビルゲンシュトック邸を足しげく訪れるようになる。(2)
1811年1月末頃、ベートーヴェン(40)
1月末頃からアントーニア・ブレンターノは数週間も病臥して、まったく人に会えない状態がつづいた。遺産の目録作りによる過労だったにちがいない。すると、ベートーヴェンがほとんど毎日やって来て、控えの間のピアノを前に座り、彼女のためにしばらく慰めの音楽を弾きつづけ、終わるとまた来たときと同じように無言で誰の目も気にすることなく帰っていった。(3)
3/11、ベートーヴェン(40)
まだ、病床を離れきれずにいた、アントーニア・ブレンターノはベッティーナに次のような手紙を送る・・・ベートーヴェンは、私のもっとも愛する人となりました。(2)
9/18、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、テープリッツを出発、プラハを経て、シレジア地方のグレーツへ向かう。一人でテープリッツを発ったベートーヴェンは、途中プラハあたりでアントーニア・ブレンターノ、ネフツェル一行と落ちあい、以後の行動を共にしたものと見られる。(2)
11月頃作曲着手、ベートーヴェン(40)、交響曲第7番イ長調Op.92
第7交響曲の作曲に着手する。(2)
1812年5/13作曲をほぼ完成、ベートーヴェン(41)、交響曲第7番イ長調Op.92
第7交響曲をほぼ完成する。(1)
1813年1月作曲、ベートーヴェン(42)、交響曲第7番イ長調Op.92
完全な形に整えられ、全曲を完成する。モーリッツ・フォン・フリース伯爵に献呈される。様式転換期に生まれたこの作品は「運命」や「田園」とは全く異質な様相を呈する。主題の旋律形態を主張すべく、従来の動機労作を放棄し、カンタービレな性格を打ち出す方向をとる。このイ長調交響曲を特徴づけるのは「リズム動機法」であり、4つの楽章はそれぞれに固有なリズムで特徴づけられ、楽曲にとって重要な要素としてリズムが前面に押し出される。(1)
12/8初演、ベートーヴェン(42)、交響曲第7番イ長調Op.92
ウィーン大学講堂で、ハーナウ戦役傷病兵のための救援資金調達慈善演奏会で、ベートーヴェンの指揮で初演される。初演は好評で第2楽章はアンコールされた。(1)
12/8初演、ベートーヴェン(42)、ウェリントンの勝利(戦争交響曲)Op.91
ウィーン大学講堂で、オーケストラ版の初演が行われる。1813年当時のヨーロッパの人々の最大の関心事はナポレオン軍の侵攻と各地での戦況であったが、6/21にウェリントン将軍率いるイギリス軍がスペイン北部のヴィットリアでナポレオン軍に大勝利したというニュースはたちまちにしてヨーロッパを駆け巡る。機械技師であるばかりか商魂たくましいメルツェルは当時ベートーヴェンと夢語りに計画していたイギリス旅行の最高の土産としてこのウェリントンの勝利を題材とした音楽の製作を思い立った。(1)
2つの小さなオーケストラをステージ上で対峙配置するウェリントンの勝利Op.91では、バイオリンの主席をシュパンツッヒが、ステージ外の楽隊の大太鼓をフンメルが受け持ち、大砲(空砲)の一斉射撃の合図を宮廷楽長サリエリが受け持ち、オーケストラの中にはシュポーア、マイヤベーア、ジュリアーニ等々も加わっていた。ウェリントンの勝利と交響曲第7番イ長調の公開初演をメインとしたこの演奏会は空前絶後の大成功を収めた。(4)

【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)
3.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
4.平野昭著・作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)

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