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「でんでらりゅうば」 第27話

 産後の安莉を、高麗先生が頻繁に往診に訪れた。先生は出産後の体の回復を助ける薬を持参し、目の前でそれを煎じて飲ませてくれもした。また貧血症が再発しそうになった安莉に、あの林のなかの診療所を訪れたときに処方してくれた薬も作ってくれた。
「煎じ薬は飲みにくいかな」
 匂いのきつい薬湯を顔をしかめて飲み干している安莉を見ると、そう言って、次に来るときには粉薬にしてカプセルに詰めたものを持ってきてくれたりもした。
「先生は、お優しいですね」
 ある日安莉が言ったとき、笑いながら首を振って、先生はこう言った。
「私はこの村を愛しているだけですよ」
 そして、安莉の目をじっと覗き込むようにして見ると、
「私もまた、村の外からやって来た身です」
 そう言って、ゆったりと話し始めた。

 先生は、東京都豊島区の出身だった。幼いころから少し病弱ではあったが、学校の成績はいいほうだった。父親は官公庁に出仕する身で、母親は元華族の家柄だった。兄弟はなく、生まれてから成人するまでずっと、乳母、家政婦、料理人が住み込んでいる明治時代に建築された瀟洒しょうしゃな洋館のなかで大切に育てられた。
 東京大学に入学し、医学部で学んだ先生は、順調に単位を取得し優秀な成績で卒業した。問題は、そのあとだった。
 地方で就職して市井しせいの身となり、いずれは小さな医院を開いて多くの人々を病から救う赤髭あかひげのような医者になりたいと思っていた先生と、大学院に進んで研究をし、将来立派な学者にでもなって欲しいと願っていた父親の考えが衝突した。これまで育ててやった親の恩に報いようとは思わないのか、と叱る父親と、なぜ実際に大勢の苦しむ人民を救うという大義を理解できぬのかと反発する先生のあいだの溝は、長い時間をかけて話し合っても決して埋まることはなく、むしろ益々深くなっていくばかりだった。
 母親はといえば、伝統的な華族の夫人としての振る舞いに何よりも重きを置く人で、絶対権威者としての父親の肩を持つばかりであった。
 そういったわけで、とうとう先生は両親との離別を決心せざるを得なくなった。東京の実家を飛び出し、医師として仕事をしながら日本全国を転々として回った。関東を手始めに東北、北陸、北海道まで足を伸ばし、南下して中部、関西、中国、四国と移動して、遂に九州へ辿り着いた。
「本当は、九州一帯を回ったら、すぐに沖縄へ移動するつもりだったんですけれどね」
 先生は微笑みながら言った。
「……もしかしたら、僕は医療を足がかりとして、旅をしたがっていただけなのかもしれない。未知の世界に惹かれるという癖が昔から僕にはありましてね、子どものころは父親からプレゼントされた地球儀や世界地図を眺めては、海外に夢を膨らませていたものでした」
「外国へお渡りになろうとは思われなかったのですか?」
 先生の話に引き込まれていた安莉は問うた。
「もちろんその計画は温めていましたよ。沖縄に渡って日本全国を制覇したら、次は外国だ。そう思って、アメリカやイギリスの資料を集めたりもしていました」
 昔日せきじつを懐かしむように、少し自虐的な笑いを口元に浮かべながら先生は言った。
「でも、九州に入ってすぐ、この村のことを聞きましてね」
 安莉のほうへ顔を向けながら、先生は言った。
「戦後まで地図にも載っていなかった幻の村。麓の村の人々もそんな村があったとは知らなかったと口を揃えて言う。言ってみればへきのなかの僻地。その村では、人はどんな暮らしをしているのだろうという興味が湧いたのです」
 先生は早速、自身の足でこの村まで上り、医者は必要とされていないかと、村長むらおさたちに直接交渉を仕掛けた。村長は、村にはすでに高麗先生という医者がいるが、高齢で、跡継ぎのあてもないことから、弟子という形で後継者候補になるというのはどうか、と返してきた。
「ひとつ返事で承諾しましたよ」
 往事を振り返るように、微笑みながら先生は言う。
「先代は、まったく仙人のような人間でね。口数は少なかったけれど、その代わり自分の手で色々なことをする人でした。あの温泉をしつらえたのも先代です。誰の手も借りず、診療所をやりながら、何十年もかけてコツコツと造り上げたのだそうです」
「あの温泉は、自然のものではなかったのですか」
 安莉は驚いて言った。あの野趣あふれる造詣ぞうけい、温泉が自らそこに湧き出すことを選んだかのようにさえ見える、山との一体感……。あれが人工のものだったとは、思いもよらぬことだった。見事としか言いようがなかった。
「仙人のようなと言ったとおり、何となく人間離れした人でしたからね。山とのつきあい方をよく心得ておられたのでしょう」
 先生は、瞳を輝かせて微笑んだ。そしてこう言った。
「まあ、そういったわけで、私はこの村で医者として生きることになったのですよ。元々医者として働いていたし、医療の基礎は心得ているつもりでした。でも先代は多くのことを教えてくれました。その最たるものは何かと言えば、つまり、私はまだ医療全体の一パーセントのことしか知らなかったということです。人間の体というもの、人間の心というもの、そして自然、自然のなかに息づくというもののことを、先代からは沢山教わりました。そのたびに私は心を開かされ、驚愕したものです」
 話し出すと熱くなっていく先生の性質を、安莉は今や好ましいものと感じていた。
「……それで、次に沖縄へ行こうという計画は?」
 安莉はわざと聞いた。先生は即答した。
「頓挫しました。僕は相当早い段階で、この村から離れたくなくなりました」
 清々しいほどの、迷いの欠片かけらもない高麗先生の眼差しに、安莉はそこで不気味な違和感が湧き上がってくるのを感じた。先生の語る村と、安莉の見ている村は同じものではなかった。先生は口を開き、何か話し始めようとしていたが、これから先生が言おうとしていることが、とても恐ろしいことであるような気がした。
「ねえ、どう思いますか」
 高麗先生は言った。
「ここを出て、元いた社会に戻っていくことに、いかほどの価値があるものか。この素晴らしい、自然と調和した、静かな生活は、もっとも人間の生きるサイクルにかなったものですよ。この暮らしが……あなたには合いませんか? 今送っているような暮らしよりもっといいものが、この村の外にあると、本気でそう思いますか?」
 平穏そのものの、自分の信念にぴたりと沿って生きている人の目が、真っ直ぐに安莉を見ていた。
 安莉は突然、ひどく混乱する自分を感じた。この村に閉じ込められていることと、外の世界に出ていくことを初めて比べてみて、そのどちらにより価値があるのかと考えると、答えがまるでわからなくなった。
 ……元いた社会に、戻っていくこと。
 それが真に自分の求めていることなのか。そこへ戻って、いったい何が自分を待っているというのだろう。
 これまでずっと、自分のなかで巡り巡っていたあのやる方ない想いの行き着く先が、うっすらと見えたような気がしたが、それは無言の空白のなかに吸い込まれるように消えていった。
「わかりません……」
 力ない声で、安莉は言った。
「今のこの暮らしが、どうなのか、私にはわかりません……、先生……」
 高麗先生は、なだめるように優しい声で言った。
「いつかきっと、わかる日が来るでしょう。自分の本当に求めるものが何なのか」
 私の場合、と、どこか遠くを見ているような表情になって、先生は言った。
「この村に魅入られてしまったんですね。あるいは、囚われてしまったというか」
 高麗先生が、今までとは別人のように見えた。安莉は先生の目のなかにも、狂気めいた何かがひらめいたように思った。

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