【ショートショート】失わなければ得られたもの
学生時代から付き合っていた彼女と別れてから、一週間が経った。浮気が判明したきっかけは、彼女がスマホをテーブルにおいて席を外しているとき、たまたまLINEのポップアップが僕の目に入ってしまったというよくありがちなもの。そのまま勝手にLINEを開いてメッセージのやり取りを確認したい衝動に駆られたが、それはこらえ、彼女が戻ってくるのを待った。6年間付き合ってきてお互いの信頼関係は出来上がっていると思っていただけに、とてもショックだった。
「さっき、スマホ、見えちゃったんだけどさ。どういうこと?」
彼女はそう言われても特に動じることなく「なんのこと?」と答え、広角をいつも通り上げてほほ笑む。いつもと変わらない、美しい笑顔だ。
その笑顔を壊すのは怖かったが、問い詰めていくと、
「カフェで声を掛けられた人なの。その日の話し相手になればいいや程度だったんだけど、そこで連絡先を交換したらそのあともメッセージが続いて、会うことになっちゃって…」
「もういいよ」僕は普段声を荒げることはないので、彼女は驚いたのか、肩をビクッと震わせた。
その後、浮気相手は一流商社のエリートサラリーマン、しかも妻子持ちということが分かった。
こんなカタチで彼女との交際を終わらせるのは嫌だったが、裏切りに耐え切れず、僕はその場で別れを告げた。
自分から別れを告げておいて、こんなに泣いたのは初めてだった。別れたいというよりは、別れなければいけない状態に追い詰められた、というほうが近い。
その後、初めての週末。一軒目の焼き鳥屋でたいぶ出来上がった状態で、二軒目を探して繁華街をふらついていた。バーに入って人と話すような気分でもない。個人の割烹居酒屋のような場所を求めていると、赤ちょうちんが見え、丁度いいと気分を上げながら店へ入った。
席に着き、品書きを眺めていると、ふと隣に座っている客が目に入った。線の細く色が白い女性で、髪は太く美しい黒髪。なぜこんな人が、ここで呑んでいるのか不思議だった。
ニ、三杯呑み酔いが回って来たころ、
「すみません」静かな声がこちらに掛けられた。まさか話しかけられると思っていなかった僕はどうようし、「はい」と甲高い声を上げてしまい、顔が赤くなる。
「観光で来てるんですけど、この辺全然知らなくて。どこか面白い場所って知りませんか?明日回ろうと思って」
そこから会話がかなり盛り上がり、映画や音楽などの共通の趣味が多く、地元も近いことが発覚した。
地元が近いというのは、僕と近いのではない。別れたばかりの元カノの隣町だったのだ。
たぶん知り合いではないし、知り合いだったとしても、特に困ることはない。
しかし、それが分かった瞬間に、僕はとても怖くなってしまった。
もう触れたくないものに、自ら近づいていくような、何とも言えぬ恐ろしさであった。
それがなかったら、また会う約束をするためにあれこれコミュニケーションをがんばっていただろうが、同時に酔いも冷めていき、「じゃ、また」と可能性がない次回を見据えた挨拶をして、店を出た。
元カノと付き合わずに、あの日に店に入っていたらどうなっていたのだろう。新しい未来が待っていたのだろうか。そう考えると、なにが正解なのか、まったくわからなくなる。
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