【祝】はんぺんチーズフライって、とってもエモーショナルな味がするんだね【編集部のおすすめ選出】
掲示板に「210」の文字はなかった。
つまり僕は、受験に失敗したらしい。
同世代らの麗らかな声が響き渡る県立A高校玄関前。不合格なる酷な現実を前に、しかしそれでいて己が心はまるで鏡よろしく凪いでいた。
何せ十五歳当時の僕ときたら分厚い参考書よりも電撃文庫や富士見ファンタジア文庫などの、いわゆるライトノベルを手に取る頻度の方が遥かに多かったわけであって、当然最悪のシナリオも想定内、いやむしろ合格したら奇跡くらいの心持ちで端から勝負を諦めていたのだ。
幸い、滑り止めの私立校からはすでに合格通知をもらっていた。解答用紙に名前を記入しさえすれば合格できるようなザ・底辺校ではあるけれど、いくら偏差値が低いとはいえ、高校であることに変わりはない。無事卒業することができれば、もちろん高卒資格が取得可能だ。公立校よりも学費が高額なぶん両親には金銭的負担を強いてしまうことになるが、そこはかわいい息子のためである。きっと目をつぶってくれるだろう。
花冷えの街。どんよりと垂れ込めた鉛色の空の下。敷地内にたむろする他の受験生らをよそに一人、履き潰したニューバランスの底を鳴らしながら、僕はそそくさと家路に就く。
学ランのフラップポケットに意味もなく両手を突っ込み、両耳には有線イヤフォン。ソニー製MDウォークマンのシャッフル再生機能はオアシスを選曲中。なんちゃらギャラガーだとかいうマンチェスター出身のスカしたヴォーカリストが、英検三級取得程度のリスニング能力では歯が経たぬような英詞をざらついた声でもって叫んでいる。
雪解けの住宅地を五分ほど歩いた頃だろうか。タバコ屋の角を右に曲がったところで、期せずして見知った顔が視界の先に映り込んだ。
あれは、クラスメイトの阪本さんだ。
阪本優さん。通称ゆってぃ。女子テニス部に所属する活発ガールで、すこぶる成績がよく、まさに模範生のような女子生徒である。記憶が確かならば偏差値七十オーバーの、県下有数の進学校を目指していたはずだ。
クラスメイトとはいえ彼女とまるで接点がない僕は、それゆえに目の前を素知らぬ顔で通り過ぎてやろうと心に決める。
しかし、しかしだった。途中、僕はどうにも見過ごすことのできない異変に気づいてしまう。
「……泣いてんじゃん」
そう、彼女は泣いていた。人目もはばからず、ひっくえっくと大粒の涙を流していたのだ。
阪本さんの隣をぴたりとつける、母親と思しき恰幅のいい中年女性の唇からは「泣かないの」という弱々しい声が漏れている。勘の鋭い僕が、阪本さんの涙の理由を理解するまで、そう時間はかからなかった。要するに彼女は、志望校に落ちたのだ。
意外だった。意外でしかなかった。誰もが認めるあの優等生が、まさか受験に失敗するだなんて。
伏し目がちに歩きながら、すれ違いざまに僕は、阪本さんに心で「ドンマイ」と呟いた。彼女はこの世の終わりみたいに泣きじゃくったまま、言わずもがな僕の心の声に気づくはずもなく、ただただ母親のたくましい腕に抱かれていた。
イヤフォンからは相も変わらずオアシスが流れ続けている。
なんちゃらギャラガーがバラード調のメロディに乗せて「ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト」などと歌い上げている。
○○○
玄関に上がるや否や「どうだった?」と駆け寄ってきた母さんに「落ちた」とたった一言告げた僕は、逃げるようにして二階の自室へと向かった。
結果についてあれこれと口出しされたくなかったのだ。
たかだか高校受験に失敗したくらいでなんだというのだ。だいたいにおいて僕は、いずれ日本の、いや世界のロックシーンを牽引するビッグな男である。一千万人に一人の才能の原石なのである。学歴なんてまるで関係ないのである。クソ食らえなのである。
四畳半のしみったれた部屋。「サブラ」や「ボム」などのグラビア雑誌が乱雑に放置された男臭い一室。冷たいパイプベッドにだらしなく寝転がりながら、天井に滲むサロマ湖みたいなシミをぼうっと見つめ続けていると、やがて睡魔は忍び足でやってきた。
「…………」
午後七時過ぎ。ただならぬ空腹で目覚めたとき、窓の外はいつの間にか濃紺に染まっていた。階下からはちょうど折よく母さんの「ご飯できたよー」の声が響いている。
当初の予定では丸一日この部屋に引きこもるつもりでいたのだが――人間の三大欲求の一つ、食欲と葛藤することわずか二分。計画はあまりにあっさりと頓挫してしまった。
キィキィと軋む十四階段を緩慢な動作で下り切った僕は、リビングへと続く立てつけの悪いドアの前で一度、呼吸を整える。
「ふう……」
意を決しドアノブを回す。右足を踏み入れる。夕食の芳しい香りがふわりと鼻先をかすめる。北欧風ダイニングテーブルには色彩豊かな料理の数々が並び、そして母さんだけがぽつりと定位置に着いている。鉄道会社に勤める父さんは絶賛勤務中。年の二つ離れた妹はまだ塾から帰っていないらしい。
僕は、母さんの差し向かいに何食わぬ顔で腰を下ろすと、
「いただきます」
さっそく食事に手をつけた。
長居は厳禁。なるべくしゃべる隙を与えてはならない。自分自身にしかと言い聞かせつつ、どこぞのフードファイターにも負けず劣らずの食いっぷりを見せる僕をよそに、一方で母さんはというと意外や意外、受験結果について何一つとして触れてきやしない。もしや、こちらに気を使ってくれているのだろうか。頬杖を突きながら、俗っぽいミュージシャンらが勢揃いする音楽特番に見入っている。あるいは見入っているフリをしている。
僕は内奥から湧き上がる安堵と共に無言を決め込み、ひたすらに飯をかき込み、しかし次の瞬間、
「何これ?」
思わず呟いていた。テーブルの端で圧倒的存在感を誇示する見慣れぬ一品を前に、どうにも尋ねずにはいられなかったのだ。
黄金色の衣に包まれた、四角い、手のひらサイズの物体X……。
「これはね、はんぺんチーズフライっていうの」
「はんぺんチーズフライ?」
「昨日テレビで紹介してて、なんだか作りたくなっちゃったのよね。食べてみて」
促されるままに、そのはんぺんチーズフライとやらを一つ、箸でつまんでみる。
果たしてどんな味が、どんな食感がするというのだろう。
喉の奥がごくりと音を立てる。緊張がほとばしる。
僕の脳内で「革命」の二文字がバネ仕掛け然として躍ったのは直後のことだった。
「……うまっ!」
熱々、サクッサクの衣。
中からひょっこり現れる、白く、ふわっふわのはんぺん。
さらに食べ進めると濃厚かつ、とろっとろのチーズが顔を出し、舌に絡みついてなかなか離れない。
某グルメリポーターの有名なコメントを拝借させていただくならば、まさに「味のIT革命や〜!」である。
「うま過ぎるよ、これ!」
己が感情は今やマグニチュード八・〇クラスでもって大きく揺さぶられていた。
これほどまでにうまいものが、この世に存在していたなんて……。
瞳に小宇宙の輝きを宿らせながら、そのあまりの衝撃にしばしの間、僕は言葉を失った。
目の前では母さんが微笑んでいる。
じっと黙したまま、ルノワールの「ジャンヌ・サマリーの肖像」みたいな表情をこちらに向けている。
○○○
「ごちそうさま」
結局、食事中、母さんが受験結果について何か突っ込んでくるようなことはなかった。
僕はド派手なゲップと共に椅子から立ち上がる。
やおらドアノブに手をかけたとき、
「リョウ」
何ごとかと振り返る僕に、母さんはいつになく落ち着いたトーンでもって、
「あんたがダメな人間だから受験に失敗したわけじゃないんだからね」
「…………」
「今回たまたまダメだっただけ。運が悪かっただけ。ただそれだけなんだからね。あんた自身は絶対にダメな人間なんかじゃない。そこだけは勘違いするなよ?」
不意打ちだった。背後から脳天にネリチャギを食らわせられたかのようなインパクトだった。
唖然と立ち尽くす僕。頭の中でひたすらにリピートを繰り返す、今しがたの母さんのセリフ。
途端に現実に引き戻されてゆく。
学歴なんて関係ないと粋がってはみたものの、僕は所詮、辛く苦しい受験勉強から逃避し、闘うことを放棄した敗北者に過ぎない。
何がいずれ世界のロックシーンを牽引するビッグな男だ。何が一千万人に一人の才能の原石だ。ギターの一つだって、Fコードの一つだってまともに弾けやしないじゃないか。
母さんの予期せぬ優しさに心の真芯をえぐられて間もなく、なんだか自分自身がひどく情けなく、しょうもない奴に思えてきた。塾まで通わせてもらったのに、僕は両親を裏切ったも同然だ。
自責の念と共に目頭の辺りが徐々に、徐々に熱を帯び始め、
「……っ」
気づいたときには、その場に泣き崩れていた。
込み上げる涙がひとたび頬を伝うと、そこからはもう一瞬だった。
堰を切ったように、それこそクラスメイトの阪本さんのように、いやそれ以上の豪快さで僕は、嗚咽交じりに醜態を晒し続けたのだ。
母さんは、眼前で小刻みに肩を震わせる息子を慰めるわけでもなく、宥めるわけでもなく、
「はんぺんチーズフライ、また作るね」
とまるで独り言のように、ぼそりと呟いた。
「また作るから」
「…………」
「楽しみにしてて」
「…………うん」
それからしばらく、僕は泣き続けた。
母さんは何ごともなかったかのようにテレビを見続けていた。
変わらなければと思う。本気でそう思う――。
生まれて初めて自分自身と真摯に向き合った夜。
口いっぱいに頬張ったはんぺんチーズフライの味を、こぼれ落ちた涙を、母さんの優しさを、僕は一生忘れまいと心に誓った。
オーイエーアハーン!