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【死んだ父と夢の中で再会した、39度の発熱に苦しむ年始の夜】 〜書店員のエッセイと本紹介〜 筒井康隆『カーテンコール』

リビングから聞こえるテレビの音で目が覚めた。
ゆっくりと身体を起こし、体調を確かめる。節々を蝕む痛みは昨夜より軽くなっており、首に帯びた熱もそれほどストレスに感じなくなっていた。
私はおそるおそる立ち上がる。不安定だった平衡感覚はだいぶ回復しているらしい。がちゃがちゃしたテレビの音も滑らかに鼓膜に滑り込んでくる。まだ多少のふらつきは残っているものの、意識はとてもはっきりしていた。

部屋のドアを開け、廊下を進む。明るい陽が深くまで差し込んでいて、家の中にはエアコンの暖かい空気がふんわりと充満していた。ぺたぺたと足音を立ててリビングの方へ向かうと、ソファーにゆったりと座っている男性の後ろ姿が見えた。彼はぽわんとタバコの煙を吐きながら、ぼんやりとアニメのワンピースを眺めていた。
その見覚えのある背中に、思わず少し動揺する。ありえない、そんなはずはない。嬉しさや驚きや恐さといった感情が生まれるよりも早く、私の口は動いていた。

「あれ、どうしたの。」

少しこけ気味の頬に筋肉質な腕。あのときよりもずっと健康的である。
すっとこちらを一瞥した父は、「ワンピースおもしろいよ」と言って再びテレビに顔を戻した。
「ふうん。」
画面ではルフィが敵と戦っていた。日曜の朝に放映されているワンピースを、毎週欠かさず見ていた父だった。私も十年ほど前までは漫画を追っていたが、いつしかやめてしまっていたので内容はもうさっぱりわからない。

「ところで最近はどうなの。」
「サンジの兄弟が出てきて、そいつらがすごい強いんだよ。」
「ワンピースの話じゃなくて。あなたの。」
「別に普通だよ。」

父はタバコの火を消してマグカップに口を付けると、美味そうに喉を鳴らした。重くて持てない、と言っていたカップの中で揺れるのはあの日と同じブラック。甘党のくせに、コーヒーだけは絶対にブラック。しかもものすごく濃い色をしたブラック。

「そういえば、去年の夏から文庫・文芸担当になったよ。超楽しい。」
「ふうん。」
「好きな作家をガンガン置けるし、自分で本棚作れるってすごくいいよ。」
「広いの?」
「エキナカだからそこまで広いわけじゃないよ。吉祥寺駅のブックファーストみたいなのは想像しないでね。」
「そう。」
「あ、今村翔悟のイクサガミの続きが出たよ。読む?」
「うん。」

私は自室へ走り、本棚をざくざくと漁って『イクサガミ 地』を探した。しかしどういうわけか、手にしたのは全然違う一冊だった。何の疑問も抱かないまま、それでいて嬉々として、もう一度リビングへ向かう。

「っていうか、父の日にあげた山本周五郎の本読めたの?」
持っていた本をソファーの上にポンと置いて、私は一方的に喋り続ける。
「読めたよ。」
「どうだった。」
「よかったよ。」

ちょっと目が疲れ気味なんだよね、と弱弱しく呟いたあの日を思い出す。ベッドに横たわりながら何とか読もうとしていたけど、実際は本を持つ力さえなかったのだった。
あのまま読めずじまいで逝ったことを一番悔しく思っているのは私の方なのかもしれない。
読ませたかった人はもういないのに、一緒に燃やさず取っておけばよかったような気がするのはなぜだろう。

父はおもむろにソファーから立ち上がって、ゆっくりと移動し始めた。
転んで腕も脚も痣だらけになってしまった日々を思い出し、私は不安げにその様子を見つめていた。しかしそれも杞憂、何事もなく父は寝室へ入る。

しばらくして出てきた父は、いつもの色褪せたジーンズに履き替えており、ワークマンで買った無地の黒パーカーを羽織っていた。

「どこか行くの?」
「うん。」

父は遺影や家族写真が飾られた机の引き出しから、銀色に光る車のキーを取り出した。
嫌な予感がして私は慌ててリビングに戻る。いつの間にかワンピースは終わっていて、地元探訪のローカル番組が急速な時の流れを表していた。

「ねえ、お母さんに会ったの。」
「美智子はまだ仕事だから迎えに行かないよ。」
「違うんだって。そういうことじゃないんだって。」

父はうっすらと笑みを浮かべながら、焼いてしまったはずのキャップを被った。
このまま行かせてはならない。直感的にそう感じた。かと言ってこのまま居続けていいということでもない。相反する焦燥感がじわじわとせり上がってくる。

「実は昨日まで熱出てた。まじ年末年始大変だった。」
「ポカリいる?」
「いる。」
「牛丼買ってくるけど。」
「食べる。」

父は「了解」と頷いて、玄関の方へ進んでいった。なぜか外出を誘導してしまった私は、少し猫背なその背中に慌ててついていく。

「あのさ!」

私の声を無視した父は、靴棚の引き戸に手をかける。作業用の汚れたスニーカーが目に入り、久しぶりに見る元気な挙動に心は揺れた。適切な言葉を言わなければと思うほど、喉元まで出かかっているものは残酷で鋭いものになっていく。

「じゃ行ってくる。」
「待って。」

父がやっとこちらを振り返る。不思議なことにその顔は、幼少期の家族旅行で見た、今の私より十歳くらい上の若々しいものになっていた。

「・・・もうね。死んじゃってるんだよ。」

私たちの間には会話が少なかった。退院して、介護ベッドで寝たきりになってからはもっと少なくなっていた。亡くなる間際も上手く喋れなかった。その弊害がこんなところで出てしまった。

「もうね、死んじゃってるんだよ。」

悔しかった。しかし私はもう一度繰り返す。
自分に言い聞かせるように、父をいつくしむように。
私の言葉は父の生気を奪っていった。みるみるうちに父の顔から赤みが消えていくのがわかった。私は唇を噛みしめて、爪で跡が残るほど手のひらをぐっと握る。

ずっと隠してきたのであろう。初めて見る父の表情は、全身をミルクのような悲しみで満たした。
私は涙を流しながらもう一度言葉を探す。必死に綺麗な台詞を作ろうとする。
だが何も出てこない。

もう取り返しがつかない、
そうわかっていたのに。

「・・・そう。」

諦めとも落胆とも、そして受容とも言えるような妙に高い声だった。玄関に座り込んだ父は、背中を向けたままじっと動かない。その肩に触れることも謝ることもできず、私はただ玄関に立ち尽くす。

びっちゃりと張り付いた下着の感触で目が覚めた。
寝返りを打つのも憚られるほどの不快な寒さと暑さが同時に身体を襲う。視界は暗く、カーテンの隙間からは夜の闇が差し込んでいる。枕元のスマホを覗くと、1:48という文字が黒い画面に浮かび上がっていた。

熱をはらんだ上半身をギシギシと唸らせ、水が入ったペットボトルに手を伸ばす。ぬるく、時間の経ったそれは、絶妙な不味さを湛えパッと口内に広がっていく。

一台の車が駆ける音が静まり返った部屋に小さく届いた。私はゆらゆらした神経を握り、おぼつかない聴覚をドアの向こうへ集中させる。

聞こえるはず・・・。聞こえるはず・・・。
ルフィが戦う豪快な戦闘音が、聞こえるはず・・・。

タバコの煙が漂うリビング。
コーヒーを啜る音。
懐かしいあの背中。
記憶が鮮やかなうちに、私は再び身体をベッドに沈めた。
遠のいていく意識は後悔の波に飲まれ、いつ再びやってくるか分からない束の間の幸福を待ちわびている。

〜本紹介〜

【一生大切にしたい7ページがありました】

筒井康隆 著『カーテンコール』

あらすじ:原始人を現代に連れてきて美味いものを食わせる実験を行う『美食禍』。
二人暮らしの兄妹の、絶妙な背徳的距離感を描いた『夜は更けゆく』。
パプリカなどの筒井キャラが次々に作者のもとを訪れる『プレイバック』。
全25篇の筒井康隆最後(?)の作品集。

王様のブランチで話題に上がっていた、第四話『川のほとり』。夢の中で亡き息子と出会うという話なのだが、これは実話もしくは著者の願いなのだろう。
「あいかわらず優しい男だなあ。」
この言葉に視界が霞む。文章からにじみ出る感情に名前は付けられない。私は漠然と受け止めたまま、ただボロボロと涙を零すことしかできなかった。


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