脱学校的人間(新編集版)〈38〉
子どもに教育を与えるということは、親から子どもを切り離して奪うということである。それによって大人たちは、「自分の子どもでも何でもないような、巷にあふれるように存在している子どもたち一般」に対して教育を与えることができるようになる。
そして人が「教育への欲望」を見出すのは、きまって他者に対してだけである。なぜなら、支配の欲望もまた同様に、他人にしか向けられえないものだからだ。すでに言っている通り、支配と保護=教育は常に表裏一体なのである。
誰の親でもない大人たちは、「他人の子ども」を使って自分自身の教育に対する欲望を実現する。ところが彼らの欲望の対象はあくまでも「他人」であることから、その欲動は際限がなく歯止めの効かないものともなりうる。何よりそれは「他人の子ども」に対するものであることから、彼ら自身としては誰からも何も「奪われる怖れ」はないのである。もし仮にそこで何かを失ったとしても、その代用はいくらでもきくのだ、「この世界から子どもが一人残らずいなくなる」ようなことでもない限り。よって彼らはまさにやりたい放題に自分自身の思う存分、子どもたちを教育することができるわけである。
そのように、他者に対する教育への欲望を抱いた大人たち、つまり「誰の親でもない他人の大人たち」に自分の子どもを差し出さなければならない、あるいは与えなければならないという一つの「義務」が、親には課されることとなる。言ってみればここでは「奪われることが、親にとっての義務」になるのだ。しかし逆にそのことが、親の立場においても一定の利益を生じさせるものだということ、つまり子どもを他人に奪われることによってはじめて、自分自身の利益として回収することもできるようになるということを、親自身もまた了承しているがゆえに、これはまさしく「合意の上での収奪」なのだということになる。
一方で子どもは、親から大人たちに奪われることによってはじめて、「大人たちによって保護される権利」を行使できるようになる。つまりその権利は「奪われる権利」でもあるわけであり、なおかつ「奪われることによって成立する権利」でもあるということになるわけである。
もちろんここで、「子どもは守られなくてもよい」などということを言っているわけでは全くない。だが、「子どもを保護せよ」と言っている大人たちは、その一方で「子どもたちを支配し収奪し、そしてしばしば殺してさえいる大人たち」なのだということについては、改めて指摘しておかなくてはならない。たしかにそれは必ずしも「同じ人物」ではないだろうが、しかし「大人であるがゆえにそれが可能となる」という意味では、いずれにせよ彼らは「誰もが同じ立場にある」と言えるのだ。
子どもたちを守るにせよ、あるいは殺すにせよ、それは「大人だからできること」なのである。逆に言えば「大人であれば、同時にどちらもできる」ことにさえなりうるわけだ。そして「そのような大人たち」に、子どもたちは我が身を預け守られていなければならないのである。「そのような大人たち」のことを、子どもたちは疑わず信じていなければならないのである。もしこのようにして守られるのでなければ過酷な生活から脱することができないというのなら、それはますますもって残酷な宿命だと言えるのではないのか?
しかしそもそも子どもは、そのように大人たちから守られ助けられるまで自分からは何もしないまま、ただじっと待つだけでいるものなのだろうか?
大人たちの方ではきっとそう思っていることだろうし、あるいは是非そうであってもらいたいところなのであろう。「私たちが助けに行くまで、そして私たちの方法で助けるまで、お前たちはそこでただ何もせずじっとして待っておれ」と、彼ら大人たちは子どもに呼びかけるであろう。それを聞き入れず「自分の意志で動く子ども」に対しては、彼らにすればその身勝手な振る舞いに舌打ちし、時として実際に無慈悲な打擲を与えることもあるだろう。
彼らは自分らの意志の届かないようなところでは、子どもたちに何もして欲しくないし、何もさせないようにしておきたいのである。なぜなら、自分たちによる救済や善行が、意味のないものにはなって欲しくないのだから。だからこの種の大人たちは、己れが救い守るべき子どもに向かって、「私たちが与えるまで、お前は何も手に入れてはならない」とか、「お前が自分で手に入れるのであれば、私たちはお前に何も与えない」とか、平然として言うのである。しかし、この一見無慈悲で不条理に思えるような言葉も、彼らが信仰する「善意」においては、それだけで十分に正当化されてしまうのである。
〈つづく〉
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