【小説】会社の近くに住む 2-1
2 十月七日木曜日
昼休みになって、フロアを出てエレベーターホールに行くと、ちょうど扉が開いたところだったけれど、自分の前でいっぱいになって、次のエレベーターが来るのを先頭で待っていた。まだ第一陣が行っただけという感じで、どんどん後ろに人が集まってきているようだった。
エレベーターの扉が開いて、奥まで進んで振り返ると、谷口さんがいつもの三人組で入ってきた。
谷口さんは俺の方を見て、口のあたりを小さくじわっと動かした。まだまだ人が乗ってくるから、谷口さんもそのまま奥に詰めようと俺のほうに歩いてくる。お互いの距離が一メートルを切ったくらいで、俺の目をじっと見てきて、息を吸い込んだ。口の端をあげるだけでもすればよかったのだろうけれど、谷口さんがこちらを見ているのを見ているだけになっていた。
谷口さんが目を逸らして身体を扉の方に向けた。まだ乗ってくる人がいて、谷口さんは背中を向けたまま、もう半歩俺の方に下がった。
ドアが閉まって、エレベーターが降りていく。
目の前二十センチに谷口さんの後頭部があった。うっすらと匂いが漂ってきている気がする。今まですれ違うときに感じたこともなかったし、谷口さんの匂いを感じるのは初めてなのかもしれない。かといって、甘くもないし、さわやかでもなくて、特にどういう匂いというわけでもない石鹸的な薄い匂いだった。
身体がかなり近くて、自分のふところに谷口さんの肩や背中が入り込んできている感じで少し居心地が悪い。小さい頭と、ストレートで少し乾いた感じのするボリュームに乏しい髪で、肩が小さいなと思う。ほとんど肉がついていなくて、骨の形がカーディガンにうっすら浮き出ていた。
こんなに谷口さんに近付いたのは初めてだった気がする。とはいえ、近いなとは思うけれど、エレベーターというのは誰とでもこんな距離感になる場所なのだし、俺と谷口さんとの微妙な視線のやり取りが何か進展したわけでもないのだ。むしろ、さっきは正面から近い距離で目が合ったのに、俺はまた表情を返したりできなかった。
谷口さんは目を逸らしてこない。さっきみたいな距離でもじっと見てくる。そこそこ気が強い人なのかもしれない。
谷口さんの視線に込められているものが、好意なのか敵意なのかはよくわからない。谷口さんがいると俺はとりあえず谷口さんを見て、谷口さんがそれを見返してくる。もしくは俺が視界に入ると谷口さんが俺を意識して、その微妙な動きに気付いた俺が谷口さんを見て、それを谷口さんが見返してくる。そういう視線のやり取りが何か月かずっと続いている。
ドアが開いて、いくつかの塊に人が分かれていった。谷口さんはエントランスではなく裏口の方に歩いていて、俺もその後ろを歩いていた。裏口を出て、谷口さんは荒木町の方向に折れて、俺もそのまま同じ道を歩いていく。
会社のビルは四谷三丁目と四ツ谷の間の、四谷三丁目側にある。そして、会社の住所も荒木町だけれど、会社の裏手が荒木町の飲食街で、会社の人たちは荒木町の中か、四谷三丁目の駅前や新宿通り沿いの店か、四ツ谷駅の方まで歩いてしんみち通り近辺の店に昼飯を食べに行く。
弁当を持ってきたり、玉子屋が来てくれているからそれを頼んだり、会社の近くのほっともっとで買ってきて会社で食べる人もいるけれど、七割くらいの人は外で食べているように思う。
東証一部上場企業で、IT系の上場企業の中では、平均年収だか三十代社員の平均年収のランキングで五十位以内に入るような会社だからというのもあるのだろう。そうでなくても、全体的に仕事が落ち着いているから、食べてすぐに仕事に戻るような人もいない。会社内で食べてお弁当を食べているような人たちも、本を読んだり眠ったりとか、みんな休憩時間をフルに休憩している。仕事内容的にもがつがつしようがなかったりするし、社員の人たちにも騒がしい人はほとんどいなかったりで、全体にのんびりした会社ではあった。
車力門通りに入って、谷口さんのグループは左に折れて新宿通り方向に進んでいった。俺はそっちには行かずに、杉大門通りの方に抜ける小路に入っていった。
前に谷口さんのグループがおじさんたちと喋っているのが聞こえていたときに、野菜とチーズフォンデュがメインの店がお気に入りでどうのこうのと話していた。谷口さんたちが向かっている方向にその店もあるから、そこに行くのかもしれない。
俺はどうしようかなと思う。特に何を食べようと決めないまま、谷口さんがこっちに歩いていたのもあってか、なんとなく四谷三丁目側にきてしまった。何でもいいけれど、少し強めの味が食べたい気がして、ふじ波は通り過ぎてしまった。そうなると、揚げ物を食べたいわけでもないし、韓国料理という気分でもなさそうだし、とりあえずは四谷三丁目の交差点までいってしまう感じかなと思った。しばらく前に、杉大門通りに四川料理の店が新しくオープンして、昼の定食もやっていたのだけれど、ほんの二週間くらいで昼の営業はやめてしまった。なかなかおいしかったから、ある日行ってみたらお店のドアが閉まったままになっていて、ずいぶん残念だった。
特に行きたいところがないのならとりあえずそこに行くというような、毎日でも行きたいようなお店が今はないんだなと思う。理想としては、毎日いろんな店に行くよりも、好きなお店の日替わりの定食を毎日みたいに食べていられるほうが楽しかったりする。ふじ波に毎日行ってもいいのだろうけれど、まだ口が中華料理に慣れすぎていて、いくらふじ波がおいしくても、なんとなく続けては足が向かわない。自分がまだ食べ盛りだったりするのもあるのだろう。ふじ波の日替わりの焼き魚とか煮魚の定食だと、ご飯をお代わりしてもお腹いっぱいにはならない。成都に毎日行っていたみたいになるには、もう少しボリュームが欲しいけれど、お店のメニュー的にそれをふじ波に求めるのはお門違いだった。
とはいえ、前の会社は新宿西口だったけれど、その近辺ではある程度好きになった店すら一軒もなかったのだ。だいたい十三時半以降とかピークを外して昼に出ていて、もうランチが終わっている店が多かったというのもあるけれど、いつも行きたい店がない状態でビルを出て、決め手もなくて、どこに入ろうかといつもムダにぶらぶらしていた。羽田さんと昼に出ることが多かったけれど、羽田さんもあそこに行こうとすぐに言ってくることがなかったし、特に気に入っている店がないのはあきらかだった。
それに比べれば、昼飯事情としては、職場が四谷三丁目近辺になって一気に楽しいものになったのだ。今だって好きなお店はいくつもあるし、ふじ波の他にもう二、三軒くらい、基本ここに行けばいいと思えるお店ができれば、何の文句もないくらいなのだろう。だとすると、そういう店を見付けるためにも、今日は行ったことのない店を開拓するのもいいのかなと思う。
(続き)
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