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人権政策を充実させるために考えること


さっそく無駄になってしまった文章を、忘れないうちに世に出しておこうと思う。

そして、いつも思うことがある。

こういう人権的な問題を扱う場合、アカデミズムな力を持つか、社会活動家としての力を持つかで方向性は大きく変わってくる。

もちろん、両方を兼ね備えたハイブリッド型も存在するが、注意深くみるとどちらかに属しているパターンが多い。

中庸的な人(ちょうど真ん中あたり)というのは、「中途半端さがいい」「魔法剣士的な器用貧乏だけど、臨機応変に動ける」なんていう風にはならない。

どちらにも所属することもできず、排除されてしまう。

今でこそ少なくなってきたけれど

アカデミズムの世界で実戦経験や社会活動的な側面が軽視されるように、社会活動家たちのなかではアカデミズムな背景や知識は毛嫌いされる。

だからこそ、その両者の意見を持ち理解できる人は、世界の色が強いところだと「面倒くさい人」あるいは「自分の世界に変革」がもたらされてしまうという根本的な恐怖を持ってくる厄災として入り込めなくなる場所が多くある。

結局、中途半端が悪いのか、中途半端でも中途半端だからできる発展性や共感性などは無意味になってしまう。

場所を見極めればいい、自分で作ればいいだけの問題であるが、なんだか腑に落ちない。

アカデミズムの中での排除、グラスツールな中での排除も経験している身としては、人権分野の活動における正義や愛は難しいなという思いである。

そんな愚痴である。


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「人権」という概念は、平等で誰にでも存在する絶対的な権利である。それは、それぞれが自分の人生を自分の思い描くままに自己実現を図ることができる権利ともいえる。

しかし、本来をそうであっても現実は大きくことなってしまう。マジョリティやエリートたちによって構築された社会は、マイノリティや様々な当事者性をもつ者たちの人権は侵害し、奪ってしまうことも少なくはない。

また、昨今「コロナ禍」という未曾有の時代に突入し、これまで自らの権利が奪われていなかった者たちでさえ、当たり前の権利を奪われ、失ってしまう困難な社会になりつつある。

そんな混沌とした時代の中で、これまでの人権政策では対応しきれないものやさらに踏み込んだ状況を想定し、充実・拡充させていくことが必要不可欠になるだろう。そのためには、重要な視点なる3つのことがある。


1つ目は「当事者の声と視点」、2つ目は「マジョリティとマイノリティを超えた共生」、そして3つ目に「それぞれに必要なことの明確化」である。


人権政策というは、ある意味「全体を網羅」したものであると同時に「指針」の意味を強く持っていなくてはならない。全てを事細かに描くことは難しいものであるが、マジョリティが視認できる代表的なマイノリティに対する対応を掲げるだけでは、「本当の人権政策」と言えない。

その時には、「当事者の声と視点」をしっかりと取り入れていくことで、ぼやけてしまい人権政策を充実することが可能にある。

もちろん、マイノリティや当事者たちの声だけが重要ではない。マジョリティたちの意見も反映させ、どうしたらマジョリティ自身が思考していけるのか、最終的にはマジョリティとマイノリティという区分を超えていけるのかという共生も必要になると考える。

そして、我々誰しもが見失いやすい、侵害してしまいやすい権利というものをしっかりと明確化していくことで、自らを救うための大事な人権が近くにあることを感じてもらいやすくなる。

人権政策を充実させるためには、上記のことをしっかりと考えて模索していく必要があり、私はそのために参加したいと考えている。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。