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HSP自己テスト ㉓ 「子供のころ、親や教師は」

みなさん、こんばんは。綺羅です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


3月だからのんびり過ごせるかなと思ったのですが、全然のんびりできていないです。

むしろ「この流れに乗って行くんだよ」と言わんばかりの、周囲の変化の波が押し寄せてきている感覚です。

恐怖もありますし、不安もありますが、自由を思う存分に享受できている今こそ、飛び込んでいく頃合いかなと思っています。


本日フィナーレを飾ります、

エレイン・アーロン博士著「ささいなことにもすぐ『動揺』してしまうあなたへ。」のチェック項目を基準にした、実体験について

の日です。

始まった当初は、完結できるとは思わず、「続けられたらいいな~」と、ぼんやり思っていましたが、本当に一区切りつかせる所まで、連載出来るとは思いませんでした。

自分のために書いていた記事が、今では一緒に読んでいってくださる方もいてくださることに、「あたたかなつながり」を感じます。

ここまで本当にありがとうございます。

このシリーズは、一旦これで終了させていただきますが、また何かのHSPシリーズでも、お付き合いいただけると幸いです。


それでは、本日も参ります。



💟

はじめに


最初にお断りさせていただきます。


この記事に書く、敏感さ、思考・考え方、感じる事は、すべて、一個人の感覚、体験や価値観、考え方に基づいています。

なので「ある人間の敏感さ」について「参考」として、ご覧ください。


また、各項目によって、「感じ方や刺激の察知度合いは、人それぞれ」という前提で、話を進めていきますので、

「こういう状態でないと、この項目には当てはまらないんじゃないか?」

「ちょっと気になるくらいなのに、この項目に当てはまると言っていいのか?」

「自分に、特定のレッテルを貼るみたいで、嫌だ。」

と、感じられる方や、持論を変えたくない方もいらっしゃるかと思います。

ですが、ここでの主張は変えませんので、閲覧の際は、「ご自身の判断」において、よろしくお願いいたします。


ある人が「悩んでいる、困っている」と感じている「敏感さ」が、テスト「項目」に、あてはまるか、あてはまらないかを、判断するための記事ではありません。

「判断基準」として「HSP自己テスト」をお知りになりたい場合は、申し訳ないですが、他のクリエイター様でお探しください。



💟

子供のころ、親や教師は自分のことを「敏感だ」とか「内気だ」と思っていた


多くのHSP気質を持つ人は、幼い頃から「敏感さ」や「繊細さ」という感覚と共にあり成長してきていることから、子ども時代には

HSC(Highly Sensitive Child)

として育った方がいると思います。

この「HSC」の子どもが、大人になると「HSP」という呼称に変わります。

HSPの解説とは別に、書籍においても、「教育」や「保育」のカテゴリーで、HSCの子どもとの接し方、育児方法等が、本屋の店頭に並んでいるのを見かけます。


HSCでも、周りの理解や心理的な支え等で、「繊細さの気質を認められる・生かせる環境」にいると、その子どもはその子のまま、

自由で伸びやかに成長していきます。

仮に、誰かに自分のことを責められても、「自分を守り、支えてくれる大人がいる」という事実があれば、

刺激に対して、過敏な反応を示さなくなっていきます。

場合によっては、生活に支障が出るほどの「敏感さ」が、大人になるにつれて、滅多に表に出て来なくなる方もいると、聞いたことがあります。


ところが、「繊細さを生かすことができない・望ましくない環境」では、なんとかその環境で受け入れられ、生活していく、見捨てられないようにするために、

HSCは、周囲の大人が期待するような「いい子」をめざし、養育者にとっては、「余計な手間」がかからない、ものわかりのいい性格や傾向になっていきます。

HSPの気質を、そのまま持っている「子ども」なので、周囲の雰囲気、養育者や親族をはじめとした、人間のことばや動作から、瞬時に状況を把握できてしまうことがあります。

周囲の環境が発する刺激から、自己防衛を働かせるために、外の「刺激」に対して、自分の「敏感さ」「繊細さ」を駆使して情報を得て分析し、自分の言動に取り入れます。

そうすることによって、周囲の大人から認めて貰えますし、

少なくとも、その環境に、自分自身を適応させておけば、異分子として排除される可能性は低いです。

大げさに聞こえるかもしれませんが、HSCにとって「いい子でいる」ことは、

「生き残ることを目的にした、自分でも実行可能な手段」

と言っても、過言ではありません。

(これ以上にHSCの話になると、教育や保育に話が及ぶので、今回はここまででまとめさせていただきます。)


こうした状態で、法律が定める所の「大人」として扱われる時期が来てしまうので、

「いい子」でいるために、自分自身が押し殺していたこころの傷を癒さないまま、社会に揉まれていきます。

社会に揉まれた結果、うつを発症したり、AC(アダルトチルドレン)の状態に苦しんだり、愛着障害を抱えてしまうこともあります。


そうしてこの項目ですが、「自分がどう思われていたか」は、当時の、親をはじめとした、自分の成長に関わってくださった大人に聞いてまわるしか、確認方法がありません。

ただ、「あまりの出来事に、忘れたくても忘れられない」といった状態が起こることと同様に、

親や教師から「敏感だ」「内気だ」と思われることを、望んでいなかった子どもにとっては、十分に「こころの傷」になります。


人によって、親や教師に、思われていたことや言われたことに対して、さまざまな反応があるかと思いますが、

子どもの時に、

・よほどポジティブな発想ができたか、

・親や教師の言うことは無視していた、気にしていないか、

・ことばに対する発想転換ができたか

がなければ、自分が元から「気質」として持っている「敏感さ」を、

大人になった現在でも、「気質」を「生きづらさ」として認識し、克服したいとは思わないと考えられるのです。


最終的に、自分の「敏感さ」やを扱えるのは、自分しかいません。

そうであったとしても、子どもが「人間としての生き方」を学び、見本にするのは、周囲の環境や大人の様子です。

その「生き方」に、「敏感さ」が邪魔な要因だと判断されると、何とかしてその要因を克服、消そうと懸命になります。

本来はあって当たり前の気質を、表に出ないように抑制し通すために、

周囲から発せられる「刺激」に対して、敏感になり、ささいな部分をも受け取り、情報を分析し、自分の行動に反映させていく作業

になると、どうしても、

敏感になり、内向的にならざるを得ない

とも、思えるのです。



💟

実生活から、考えてみる


私自身は、義務教育とよばれる「小学生」「中学生」の頃には、親にも先生にも「敏感だ」「内気だ」と言われていました。

そう言われた時の自分の中には、2通りの解釈がありました。

1つは「敏感で内向的でいいんだよーっだ!だってそういう状態が一番楽しいんだもん。」と、いう自分。

もう1つは「私だって一生懸命に、自分なりにみんなと一緒に過ごしてるのに、自分の何がいけないんだろう。」と、いう自分。

私は、自分がしばらく生きてきた中では、

先の1つめの声を黙殺する選択をしました。


そうでないと、私が今まで生きてきた環境の中では、親も先生も、自分で自分を考える余地を与えてくれないほどに、

自分の足りない部分を、徹底的に指摘してくるからです。

肉体としての自分を生かすために、一度、精神としての自分を、私は見殺しにしました。


つらくて、悔しかったけれど、仕方がありませんでした。

子どもの自分は、親が働いてくれているから衣食住があるし、学校で先生が教えてくれるから学ぶことができるのであって、自分では「敏感」で「内気」だから、何もできないダメな奴だと、思っていたのです。

今こうして文章にして書いていると、親や先生から、自分自身を引っぺがして連れてきたいと思うくらいに、自分の味わった苦しみが痛く伝わってきます。


当時の親や先生も、私のためを思って、言ってくれていたとしても、私が自分を「敏感」でも「内気」でもいいんじゃないかと思っている以上、それらのアドバイスは、ただの騒音です。

ですが、私はそれを言えませんでした。

その時の私は、完全に「いい子」でいたので、親や先生に反発することは悪だと、本気で信じていたからです。

環境に受け入れられるには、騒音を一生懸命に聴かなければなりません。

そうして自分を追い詰め、自分をないがしろにしていきました。

こうして、

表では優等生だけど、実は「生きづらさ」から、何もかも投げ出して、突然死にたくなって仕方がなくなる「私」の完成です。


こうなると、自分自身への怒り方や責め方が厄介になりました。

・自分の髪の毛をむしったり

・家具の角で頭を打ち付けたり

・尖ったもので自分の手を刺したり

して、自分自身への怒りを鎮めていました。

こうしたことで感じる「痛み」で以て、自分の「敏感さ」や「内気」を打ち消そうと、努力していたのです。


一概に、みんながこうした状態になるとは言いませんが、可能性としては、なり得てもおかしくない状態です。

何が引き金になるかは分かりません。

ですので、こんな状態になって欲しくないと思うことからも、

・子どもに、「人間として」真剣に向き合う

・「あなたが失敗しても、未熟でも、見守っているよ・味方でいるよ」と伝えて体現していくようにする

姿勢・態度は、重要なのではないかと、個人的に思います。


現在、母とは、こうしたやりとりを含めて、親子関係は改善されました。

この話になると、記事の内容から大きく逸れるので、また改めて母娘関係の記事を書きたいと思います。



💟

「敏感」「内気」が、自分との向き合い方だから


「敏感さ」や「内気さ」が、どうしてこれほどまでに「忌まわしきもの」のような扱いを受けるのかが、分からないのですが、私が考えることの一つとして、

外に関心を向けさせることで、人との「みえる」つながりを認識でき、社会の一員としての自覚を促そうとしている

のではないかと、思いました。


生きているのであれば、必ずどこかで人と関わらざるを得ません。

もっと言えば、この世に生を受けた時点で、「親」という「人間」と、すでに関わっている状態があると言えます。


社会や環境は、一人の人間の力で、作り上げているわけではありません。

さまざまな事情や背景を持った多くの人が、それぞれの形で社会に関わり、くらしを支えています。

その関わりにおいて、自分だけで社会に発信しているわけではなく、誰かと関わりながら、一つの発信を為していると言えます。

現に、noteを使って発信している全クリエイターさんは、noteというシステムを作った運営しておられる方々に、方法を提供していただき、発信ができているので、

ここで発信している時点で、間接的であっても、誰かと関わっていることになります。


「つながり」や「きずな」と呼ばれるものは、どうしてもみえるものではないので、人は不安になります。

そうした状態を、あえて可視化できている形、

「誰かと積極的に関わること」

「多くの人と一緒に何かをなしえること」

という状態を実感、体感させたいのかもしれません。

その目的自体は、大切なことですし、素晴らしいことだとは思うのですが、

そこに向けさせる方法が、HSPの人にとっては「強引」や「しんどい」と感じられるかもしれません。


自分自身に「敏感」になり、「自分に気を集中させること」で、自分は何がスキで、何をしたいのか、どのような未来を夢見るかを考えることは、

独りになることを余儀なくされた状態において、一人の人間を「生きること」へと導く力となります。

そのためには、人のこえではなく、自分のこえを聴くことができるような

自分自身に対しての「敏感さ」や「意識をむける力」が必要です。

そういう状態を、親や教師からみれば、「敏感」で「内気」に見えるのだろうと思います。


自ら考えたことから、際限なく話題を展開させていくとなった時、HSC、HSPの話の壮大さに、きっと驚かれる人が多いことだろうと思います。

HSP気質を持つ人は、世界を大きく俯瞰して視たり、宇宙や生命、世界の成り立ち、死を迎えた後のこと等、実生活ではあまり語られない、

壮大な生命の物語を胸に、今を熱く生きている人が多いです。


みんながみんなそう考えているとは言えませんが、少なくとも、

その瞬間に多くの想いを抱えて、生きている人たちです。


「敏感だ」「内気だ」と言い切ってしまうのは簡単です。

ですが、言い切ったことと同時に、

「ありうる一つの未来」を捨てているのかもしれない

ということも、忘れないでいたいですね。


その一言で、その思いで、一人の人間の未来が閉じてしまうと分かっているとしても、「敏感だ」「内気だ」と、子どもに伝えますか?



💟

トップ画像は あさぎ様 からお借りしました!

ありがとうございました!


みなさんからのスキに、みなさんのアイコンを見ては嬉しい気持ちでいっぱいになれます。

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました!


それでは、今日はここまでです。

みなさん、いい休日をお過ごしください。


最後になりましたが、このシリーズはこの記事をもちまして、終了です。

長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。

また次の新連載でも、お会いできることを楽しみにしています!



クリエイターの活動費として、使わせていただきます。 また、日本を中心とした、伝統文化を守り後世にも残して参りたいですので、その保護活動費としても使わせていただきます。