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《無料公開》【マリーンズ略史 92~05/-22- 年「ファンクラブとマリーンズユニ」】


(22)ユニホーム応援が広がったのはロッテから

 現在は、どこの球場でもユニホーム姿のファンが多くなった。球団も期間限定のユニホームをデザインして着用し、そのデザインのユニホームを来場者にプレゼントする企画も多い。

 千葉に移転した当時、スタンドにユニホーム姿のファンはほとんどいなかった。ユニホームの販売はされていたが選手仕様と同じ材質で非常に高価なもので数万円していた記憶がある。Tシャツ等も販売されていたが、着ているファンは少なかった。何より、ユニホームにしてもTシャツにしても、持っていたとしても周囲で着ている人がいない中で着用することは勇気が必要だった。
 そんな中で「革命」を起こしたのが千葉ロッテマリーンズファンクラブだった。

【ファンクラブの景品にユニホームが登場】

 ファンクラブは川崎球場時代からあった。もっと古く言えば東京球場時代に子ども向け「子ども会」があり、年会費を払うと全試合内野自由席が無料で入場出来、帽子が景品としてプレゼントされた。その後、子ども会の景品も帽子以外にリュックだったり、ポロシャツだったりと、様々な景品を用意したのは12球団でロッテだけだった。川崎時代に大人のファンクラブも発足し、現在に至っている。当時は大人も川崎球場の全試合内野自由席に無料招待だった。
 そのファンクラブが画期的な景品を用意した。千葉移転当時はピンクのユニホームだったが、1995年にバレンタイン監督がデザインを一新。ホーム用は白地に黒の細い線のストライプ。胸は「M」の一文字は斬新だった。ビジター用はグレー時に胸「MARINES」のロゴ文字もカッコ良かった。
 この頃からユニホーム姿で観戦するファンが出始めたが、まだまだごく少数だった。ただ、ピンストライプのユニホームは若い人たちから「かっこいい」と評価が高く、ファンから気軽に着られるようなユニホームのリクエストが出ていた。

 そこで、球団のファンクラブは球界初の驚く仕掛けを行った。ユニホームをファンクラブの景品として用意することを企画したのだ。問題はコストだった。当然、選手と同じ仕様は無理である。そこで、様々な方策を模索し、安価な生地で大量に製作すればコストが大幅に下げられる東南アジアでの製作に目をつけ、景品として準備したのだった。

 1998年にそれが俄然注目を集める出来事があった。18連敗である。連敗が重なると全国から野球ファンのみならず、社会現象としても注目された。日本記録となる17連敗目は急遽テレビ中継され、勝利目前で追いつかれた。それでも罵声を浴びせることなく、涙ながらに揃いのユニホームを着て声を枯らすファンの姿が各所で取り上げられた。
 数万円するユニホームが年会費3,000円で手に入るとこから、一気にマリンスタジアムのスタンドにユニホーム姿が目立つようになった。軽快なリズムで声を合わせるこれまでにない応援スタイルも相まって、ユニホームを着ての応援スタイルがライトスタンドのスタイルとなった。12球団で初めてのことだった。もちろん、選手仕様とは程遠いもの。厚い生地で印刷された簡易なものだったが、真夏でもユニホームを着て外野で応援する事が若者を中心に流行り出したのだ。12球団で初めての現象にパ・リーグのファンクラブ担当から問い合わせが入り、パ・リーグの数球団が同様にファンクラブの景品にユニホームを配布し、パ・リーグ球場のスタンドに一気にユニホームを着用したファンの姿が広がった。

 その後、ユニホームは素材も軽くなり、薄地の生地が主流になった。それとともにネームや背番号も圧着ではなくプリントとなり、量産することによりコストダウンもされ、5,000円程度で入手可能となり、現在では全ての球場でホームチームもビジターチームもユニホーム姿のファンが多くなった。

 話は逸れるが、オリオンズ時代のユニホームも球界初の画期的なものだったことを付け加えておきたい。1974年に金田監督の就任とともに、オリオンズのユニホームは赤と紺のラインが鮮やかなデザインとなった。ネームも背番号もラインもユニホームに圧着していた時代だったが、オリオンズユニホームのラインはニットの生地だった。つまり前と後ろとラインの赤と紺と4枚の生地が縫い合わされたものだった。もちろん、12球団でロッテだけ。ユニホームの歴史に付け加えておきたい。

【応援スタイルの変遷】

 1993年、サッカーがプロ化され「Jリーグ」がスタートした。スタンドはユニホームを着用しての独特のリズミカルで軽快な応援スタイルが注目された。ちょうど千葉移転2年目の事だった。この当時は昭和時代の名残が残っており、応援の主流は外野スタンドに移りつつあったものの、内野スタンドで和太鼓と三々七拍子の応援も行われていた。

 話は逸れるが、少し応援スタイルの歴史に触れておきたい。プロ野球で外野スタンドに応援団が登場したのはいつなのかを考えてみた。それは多分、広島だったと思う。初優勝した1975年頃、センターを守っていたミスター赤ヘルこと山本浩二の私設応援団が外野スタンドに陣取ったのが初めてではないかと記憶している。チアが登場したのも広島市民球場だったと思う。まだ内野スタンドでの応援が主流で、その合間に外野で応援が行われていた。
 川崎球場にも外野スタンドに突然太鼓隊が登場したことがあった。1978年に川崎移転した際、外野スタンドに10人ほどの若者の太鼓隊が登場した。とろが、リズムは良いのだが、ずっと太鼓を叩いていた。重ねて言うがリズムが軽快で私は好きだった。しかし、のべつ幕なしの太鼓の音に、さすがに監督や選手から「止めて欲しい」とクレームが出て退場となったが、あれがロッテ応援の外野初登場だったのではないかと今でも思っている。
 その後、1980年代後半から各球場の応援団が外野スタンドに移行。ロッテも川崎最終盤の頃には外野スタンドに応援団が誕生した。

 18連敗を喫した際、ユニホームを着て「俺たちの誇り」を合唱して声援を送るスタンドの姿が繰り返しテレビで取り上げられ、注目を集め出したことは前述したが、ユニホームスタイルと応援スタイルが合致したことは間違いないところ。連敗中の選手たちのコメントは「スタンドのファンが暖かかった。ありがたかった」と感謝した。こんなコメントがマスコミを通じて広がり、ユニホームとともに、応援スタイルも軽快なリズムと立ち上がって声を出すスタイルが注目された。
 翌シーズンから外野スタンドのファンが増え出した。もちろん、ユニホームを着用している。内野スタンドもユニホームを着用しているファンが増えていく。圧着の背番号とネームも自由に貼り付けられることも人気の理由だった。
 そして、2002年には「マリーンズファン」として「毎日スポーツ人賞文化賞」を受賞するまでになった。

 さて、独特の応援スタイルが広がった背景の一つに球団のバックアップがあったことを記しておきたい。2000年頃の応援はトランペットに合わせて音の出るものでリズムを取ることが応援の主流だった。その際に使用するメガホンやミニバット等のグッズはロッテに限らず、球団の販売するグッズ販売の主力商品だった。外野の応援団は「声を出す」応援に専念してもらうために、メガホンやミニバット等音の出るグッズの使用をしないように呼びかけた。球団のグッズ販売に大きく影響を与えるものだった。しかし、球団は売り上げ減少を承知して、これを黙認したことも応援スタイルの定着の要因だったことを付け加えておきたい。

(次回)⇒選手編が登場
(23)《有料・冒頭試読》チーム支えたエースの苦悶・黒木知宏(1995~2007年在籍)


【マリーンズ略史 92~05 INDEX】

【~1991(平成3)年】
(1)《無料》『千葉移転前夜』
  (25)《無料》 オリオンズ~マリーンズ ファンクラブ略史
【1992(平成4)年】
(2)《無料》『千葉移転元年 4月ダッシュも最下位に沈む』
  (42)《無料》移転直後の快進撃 (1992年)
【1993(平成5)年】
(3)《有料・冒頭試読》『最下位脱出も大差の5位に低迷』
◆1994(平成6)年
(4)《有料・冒頭試読》『八木沢監督休養、2年連続5位に終わる』
◆1995(平成7)年
(5)《有料・冒頭試読》『球団改革断行、千葉移転後初のAクラス』
  (21)《無料》風しん蔓延で主力が消えた14日間(1995年)
◆1996(平成8)年
(6)《有料・冒頭試読》『投手充実も、得点力不足否めず5位低迷』
◆1997(平成9)年
(7)《有料・冒頭試読》『中盤反攻も迫力不足否めず最下位に沈む』
◆1998(平成10)年
(8)《有料・冒頭試読》『18連敗「七夕の悪夢」もチーム力は向上気配』
  (20)《有料・冒頭試読》なぜ18連敗を喫したのか? (1998年)
  (22)《無料》ユニホーム応援が広がったのはロッテから (1998年~)
  (33)《無料》黒木2冠と小坂の盗塁王騒動(1998年)
◆1999(平成11)年
(9)《有料・冒頭試読》『18年ぶり「七夕首位」も、連敗喫して4位低迷』
  (18)《有料・冒頭試読》熱く育てた山本監督の5シーズン (1999年~)
  (28)《無料》18年ぶり首位「七夕の歓喜」狂騒曲
  (38)《無料》前半快進撃支えた「ボーリック神話」(1999年)
◆2000(平成12)年
(10)《有料・冒頭試読》『4月出遅れ5割届かず5位低迷』
◆2001(平成13)年
(11)《有料・冒頭試読》『世代交代、福浦首位打者、小林雅パ記録もエース後半離脱』
◆2002(平成14)年
(12)《有料・冒頭試読》『開幕11連敗が響き借金5の4位に終わる』
  (39)《無料》あわや、開幕連敗記録に王手(2002年)
◆2003(平成15)年
(13)《有料・冒頭試読》『終盤に先発安定、9月快進撃も4位で山本監督辞任』
◆2004(平成16)年
(14)《有料・冒頭試読》『ボビー復帰、新制度プレーオフ進出に0.5ゲーム差』
  (17)《有料・冒頭試読》「ボビーマジック」とは何だったのか(2004年)
  (19)《有料・冒頭試読》巻き込まれた、球界再編騒動 (2004年)
◆2005(平成17)年
(15)《有料・冒頭試読》『プレーオフで逆転優勝、阪神破り31年ぶり日本一』
(16)《無料》(付録)『ポストシーズン詳細、二軍合わせて6冠王者成』
-------------選 手 編------------
(23)《有料・冒頭試読》チーム支えたエースの苦悶・黒木知宏(1995~2007年在籍)
(24)《有料・冒頭試読》二軍成長記・福浦和也(1994~2019在籍)
(26)《有料・冒頭試読》ルーキーからフル回転左腕・藤田宗一(1998年~2007年在籍)
(27)《有料・冒頭試読》低迷期支えたエース、復帰後はリリーフで日本一・小宮山悟(1990年~1999年、2004年~2009年在籍)
(29)《有料・冒頭試読》打線を支え愛された背番号6・初芝清 (1989年~2005年在籍)
(30)《有料・冒頭試読》抑えの切り札への道・小林雅英(1999年~2007年在籍)
(31)《有料・冒頭試読》オリオンズ最後の戦士・堀幸一(1989年~2009年在籍)
(32)《有料・冒頭試読》マリーンズ初タイトル剛腕エース・伊良部秀輝(1988年~1996年在籍)
(34)《有料・冒頭試読》マリーンズ初の新人王、盗塁王・小坂誠(1997年~2005年在籍)
(35)《有料・冒頭試読》強気なマウンド、マリーンズ初代クローザー・河本育之(1992年~1999年在籍)
(36)《有料・冒頭試読》「14打席連続出塁」の大記録樹立・南渕時高(1990年~1997年在籍)
(37)《有料・冒頭試読》マリーンズ初の最優秀救援投手から手術へ…・成本年秀(1993年~2000年在籍)
(40)《有料・冒頭試読》7年目のブレーク「サンデー晋吾」(1994年~2013年在籍)
(41)《有料・冒頭試読》裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司(1994年~2006年在籍)

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