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《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-27- 低迷期支えたエース、復帰後は日本一・小宮山悟】

(写真 1998年の鹿児島二次キャンプから。投手陣を引っ張る小宮山悟(左前)、(左から)藤田宗一、河本育之、シェーン・デニス、寺村友和、ジョー・クロフォード)

(27)低迷期支えたエース、復帰後リリーフで日本一・小宮山悟

 2004年、ロッテへの5年ぶりの復帰が決まった小宮山悟は会見でこう話した。「重光オーナー代行から電話をもらった時、奇跡が起きたと思いました」。かつて、オリオンズ晩年に入団し、マリーンズ初戦の開幕マウンドに上がり、以降、苦しい時期の投手陣を支えた。しかし1999年オフ、意外な形でチームを去った。
 あれから5年が経過していた。年齢は39歳になっていた。自分でチームを去った訳ではないだけに、その時は悔しい思いもした。しかし「今はわだかまりはない。『過去にああいうことがあったけど、帰ってきてくれないか』というオーナー代行の言葉に即答した。どんな役割でも投げる」。
 2005年、チームは日本一になった。小宮山の投げた場所は一言「リリーフ」という言葉では語れない場所だった。小宮山がいたからこそ達成した日本一でもあった。

【早稲田のエースとしてドラフト1位】

 小宮山はオリオンズ時代の1989年ドラフト1位指名を受けて入団した。92年から千葉に移転したため、2年間川崎球場のマウンドに上がった。
 チームは球団史上初の2年連続最下位に沈み、有藤道世監督が退任して金田正一監督が復帰したシーズンだった。投手陣にはこの年限りで引退することになる村田兆治が君臨していた。キャンプから即戦力として一軍に帯同し開幕一軍も果たした。「一年目に兆治さんと一緒になれたことはラッキーだった。とにかく、いろんなことを学ばせてもらった」。ルーキーイヤーだったが、先発、リリーフとフル回転。9月度には月間MVPを受賞。6勝ながら防御率はリーグ4位の3.27、チーム最多先発登板と最多投球回数を記録した。村田は「小宮山という若い柱が出来つつある、あとは任せた」とチームを去った。

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