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《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-40- 7年目のブレーク「サンデー晋吾」・小野晋吾】


(40)7年目のブレーク「サンデー晋吾」

 2000年、開幕ローテーションに定着すると、日曜日ごとに先発して9連勝をマーク。「サンデー晋吾」と話題になった。小野晋吾プロ入り7年目のことだった。「石の上にも3年、小野は6年」と話題になった。
 そして、なぜか日本ハムと因縁があった。小野は「意識していないけど、頭に残っているのは日本ハム戦」と笑ったが、生命線となったシュート習得のきっかけは二軍での日本ハム戦だった。初先発・初勝利も日本ハム戦、2000年のサンデー晋吾と呼ばれ10連勝したが、日本ハム戦に敗れ、次の先発から連勝がスタート。11連勝を狙って止まったのも日本ハム戦だった。そして2012年に記録した現役最後の黒星も日本ハム戦だった。
 今回は二軍で研鑽した6年とサンデー晋吾としてブレイクした7年目を中心に、小野晋吾のピッチングを思い返したい。

【石の上にも3年】

 1993年のドラフト6位入団。高卒投手は7位の福浦と2人だった。福浦と初のキャンプで「力の違い。自分のレベルの低さ」を痛感したという。福浦と「数年かけてでも、体をしっかり作っていこう」と誓い合った。それが、2人の長いプロ生活の礎となった。1年目の夏、福浦とともに打者転向を前提に首脳陣の前で打撃練習を行った。快打を連発した福浦は打者転向を決意した。小野も打診を受けたが、投手へのこだわりから断った。「福浦はセンスが違っていましたから。僕は中途半端になるなと思いました」と小野はこの時のことを振り返る。
 1年目はケガもあり、体作りに終始した。シーズン後半に二軍のマウンド3試合に上がったが、5回を投げて2自責点、防御率は3.60だった。2年目の1995年も体作りを重視。中継ぎを中心に19試合と登板した試合は増えたものの、防御率は5.94、3勝4敗、特にコントロールに課題を残し、36.1回を投げて29四死球だった。

【4年目と5年目、2つの決断】

 3年間、二軍で一から体を作り、技術力を磨く努力を重ねてきた。しかし、ボールのスピードは増したものの、限界も感じていた。高校時代は大きな武器だったカーブだけでは苦しくなっていた。特に打たせて取るタイプの小野にとっては球種は生命線だ。そこで、4年目の1997年に『一つ目』の決断を下す。それはスライダーの習得だった。前年から取り組み始めていたが、キャンプ中の投げ込みで徐々に自分のものにしていった。そして二軍でローテーション入りし、ジュニアオールスターに出場。1試合だけだったが、10月10日に一軍のマウンドにも上がった。

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