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《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-24- 福浦二軍成長記】

(写真 1998年ピオリアキャンプ。千葉県出身同期の立川隆史(右)と談笑する福浦)


(24)福浦和也の二軍成長記

 2002年大晦日、除夜の鐘が響き始める頃、千葉マリンスタジアムにあるトレーニングルームで汗を流す男がいた。本人曰く、恒例の「挙げ初め(あげぞめ)」をカウントダウンとともに行っていた。福浦和也の年越し行事だ。福浦は元日には必ず「挙げ初め」を行っていたが、この年は年越しで実施した。「挙げ納めと挙げ初めを一緒にやってみた」と笑ったが、福浦にとってウェイトトレーニングは、それだけ自身の体にとって重要かつ神聖なものだった。
 1997年の後半から一軍に定着し、2001年には首位打者を獲得し、2019年4月10日には通算2162試合に出場、榎本喜八を抜いて球団の最多新記録を更新(最終記録は2235試合)、9月22日の西武24回戦(ZOZOマリン)で史上52人目の通算2000安打を達成。球団では榎本喜八、有藤道世以来3人目、マリーンズとしては初。42歳9ヶ月だった。
 投手として入団してからの打者転向による福浦の足跡だが、今回は入団してから一軍に定着するまでの4年間の足跡を簡単に記してみる。

【地元の古豪習志野高校から入団】

 1993年のドラフト7位で地元習志野高から入団した。千葉移転2年目のオフ、拓大紅陵高の2位立川とともに地元強豪校からの指名だった。千葉県はマリーンズ誕生までプロ野球空白県だったが、野球への関心度は高く、特に高校野球は関心が高い県だった。昭和の時代は銚子商高が甲子園で準優勝して全国的に知名度を上げたが、その銚子商高を中心に市立銚子高、成田高、習志野高、拓大紅陵高などの強豪勢の人気は高い。この2人の入団は地元千葉県民のマリーンズに対する関心を高める入団になった。
 ただ、ドラフト順位が物語る通り、高校通算32本塁打を記録し2年時には甲子園に出場して一発を放ち、準優勝のメンバーだった立川とエースで4番ながら千葉県予選で敗退していた福浦では注目度は段違いだった。ただ、練習試合や県大会等で何度も対戦していた立川は「あいつのカーブはえげつない」と話すほど福浦のピッチングに一目置いていたし、福浦も立川の打撃技術の高さに一目置いていた。

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