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《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-44- 中継ぎ切り札から先発の柱へ・小林宏之】

(写真 2002年マリーンズファンブックから)


(44)中継ぎ切り札から先発の柱へ・小林宏之

    (1997年~2010年在籍)

 入団7年目の2003年7月9日、小林宏は先発マウンドに上がった。前年2002年4月2日以来の先発マウンドだったが、奇しくも7月9日は2年目に初勝利を挙げた日だった。自身も「不安だった」という5回を超え、6回を2安打2四球に封じ、自身初の先発勝利を挙げた。通算先発として9度目、11勝目の勝利は待望の勝ち星だった。「ホッとしました。途中で頭をよぎりましたが、今日は気持ちも体も全く違っていた。これからガンガン先発で投げていきます」。試合後の小林宏は笑顔を見せた。
 以降、先発の柱として定着。日本一となった2005年には清水直、渡辺俊、小野とともにローテーションを守ったが、このシーズンから始まった交流戦では、3打席で二塁打を放ち打点も挙げるなど、打率.333をマーク。投げても5勝0敗で初代交流戦MVPに輝いた。2010年にはクローザーとして下剋上日本一を支えた。
 今回は小林宏にスポットを当てるが、先発として一本立ちするまでの7年間を中心に記していく。

 【リリーフ転身で一軍切符】

 春日部共栄高校から1996年のドラフト4位で入団した。甲子園出場は果たせなかったが、ボールのキレの良さの評価は高かった。
 1年目は中継ぎ中心に登板、ジュニアオールスターにも出場した。二軍で頭角を現したのは2年目の1998年だった。先発としてローテーションに定着し、二軍で24試合に登板して規定投球回に到達。7勝7敗、防御率は4.48と粗さは目立ったが、チーム最多となる72奪三振を記録した。7月には2試合だったが一軍のマウンドにも上がった。
 その後1999年は二軍で20試合3勝2敗、2000年はケガもあり17試合2勝4敗、防御率7.04と今一つ。一軍から声は掛からなかった。

 転機は5年目の2001年だった。二軍でリリーフに転身、クローザーも務めるなど結果を残し、6月に一軍登録された。当初は敗戦処理的なリリーフだったが、7月9日のダイエー18回戦(千葉マリン)では9回表に小林雅が同点に追いつかれ、延長10回表に吉田、藤田が3失点して6-9とリードを許す。最後に小林宏が1人を打ち取り降板したその裏、ボーリックが満塁弾を放ち大逆転。小林宏にプロ初勝利が転がり込んだ。

 【先発転向も課題残し…】

 その2001年、オールスター後に山本功児監督は小林宏に先発を命じる。プロ初先発は8月5日、西武21回戦(千葉マリン)だった。4回を3安打ながら4四球、1失点でマウンドを降りた。以降、6試合に先発する。
8月15日 5回二死 7安打3自責 ●
8月21日 5回一死 4安打2四死2自責 ―
8月28日 4回一死 7安打3四死3自責 ●
9月4日 2回二死 3安打1四死3自責 ―
9月11日 6回一死 3安打4四死2自責 ●
9月17日 5回一死 6安打1四死4自責 ●
 最後にリリーフで登板し、22試合に登板、7試合で先発し1勝4敗、先発では0勝4敗だった。先発として課題は残った。6回までマウンドにいたのは1試合のみ。後は5回持たずに降板していた。つまり、相手打線の2巡目、3巡目に捕まっていた。それでも、山本監督は来シーズンも先発要員として考えていた。秋季、春季とキャンプでスタミナ作りが課題だった。

 翌2002年、開幕4戦目4月2日のダイエー2回戦(北九州)の先発マウンドに上がった。初回2本のヒットで1点の先制を許す。しかし、2回から立ち直り2、3回と三者凡退、4回はヒットと四球の走者を出すも後続を断つ。しかし3巡目の5回に3ランとソロ2本と3本塁打を打たれ、5点を失って降板した。チームは開幕連敗が止まらないこともあり、小林宏は以降リリーフに回った。
 リリーフに回ると、小林宏は好投した。もちろん失点する試合もあったが、走者を背負った場面でマウンドに上がることも多かった。8月7日のダイエー19回戦(千葉マリン)では、7回二死満塁の場面で登板し4番・小久保を力で中飛に打ち取った場面は圧巻だった。結局、このシーズンはチーム最多となる58試合に登板し7勝4敗で防御率は2.53と安定した、先発した試合を除くと防御率は1.996だった。

 【再び先発へ】

 2003年も開幕からリリーフとしてマウンドに上がった。シーズン2勝目となった5月13日の日本ハム7回戦(千葉マリン)では、0-2とリードされた7回表無死満塁でマウンドに上がり4番・エチェバリアを三ゴロ本塁併殺打、代打・坪井を三振に仕留め8回表も三者凡退、8回裏に打線が逆転し、9回を小林雅が締め、小林宏らしさを発揮した好投だった。ただ、山本監督は小林宏を再度先発に回す意向は持っていた。

 そして7月9日の近鉄14回戦(千葉マリン)、加藤が不調から二軍で再調整することになり、山本監督は迷わず小林宏を先発マウンドに送った。試合後、山本監督は「5回に捕まるかとヒヤヒヤしたよ」と冗談めかして話したが、この日の小林宏は5回にヒットを許しても後続を断つ。そして6回もマウンドに上がり、6回を3安打2四球無失点に封じた。18日のダイエー15回戦(千葉マリン)も6回まで無失点、7回に1点を失い降板したものの4勝目を挙げた。8月2日の近鉄19回戦(東京D)では1-2と敗れたものの、8回2失点でプロ初完投を記録した。
 最終的に14試合に先発し、10敗ながら自身初となる2ケタ10勝をマーク。3完投をマークし規定投球回に到達、防御率3.84でリーグ9位に入った。
 2003年のシーズンを終え、先発とリリーフの違いについて小林宏は「もちろん、先発とリリーフの違いは分かっているつもりだったんですが、力の配分というか…。口で説明するのは難しいんですが、今シーズンはそれが分かりました。抜き方というか…。前回は全力でいってましたから持たないですよね」と話した。

 【ローテーションの柱に】

 2004年、バレンタイン監督も先発ローテーションの一角として起用。フルシーズンローテを守り、チーム最多となる22試合に先発し、8月には3勝0敗で自身初の冠となる月間MVPを獲得した。ただ、自身はシーズンを振り返り「防御率は4点台(4.26)、勝利も2ケタ(9勝7敗)に届かなかった。被本塁打も与四球も多かった。もっと安定してチームに貢献できるようにならないと」と反省を口にした。
 翌2005年、初の交流戦ではピッチングだけではなくバットでも魅せた。初打席は広島2回戦(広島)だった。第1打席は右飛に倒れたものの、ファールで粘り上手く右方向へ運ぶバッティングにベンチからは喝さいが上がった。第2打席はマリーンズ投手陣の初ヒットとなるライト線への二塁打、そして第3打席では二死満塁のチャンスに打席に立ち、押し出し四球を選んで初打点も記録した。試合後は「二塁に立って走者となったら疲れて最後まで持たなかった」と苦笑したが、その後も2二塁打にスクイズも決める活躍、10打数3安打3打点。もちろん投げては5勝負けなしで初代王者に貢献。自身は「初代交流戦MVP」に輝いた。
 結局、このシーズンも最後までローテーションを守り、防御率3.30、自己最多となる12勝6敗とチームの快進撃を支えた。プレーオフでは第1ステージの第2戦に先発して福岡行きの切符をチームにもたらし、第2ステージでは敗れたものの第4戦に先発。日本シリーズでは第3戦に先発し6回を1失点と役割を果たした。

 以降、2009年まで毎シーズン20試合を超える試合に先発。2007年にはキャリアハイとなる13勝、防御率2.69(規定到達年)を記録した。そして、下剋上を達成して日本一となった2010年には抑えを担当。好不調の波があったものの3勝3敗29Sを記録。ポストシーズンでもクライマックスのファーストステージでは2試合1勝1S、ファイナルステージでは2試合2S、日本シリーズでは5試合1Sと貢献。オフにFA権を行使して阪神に移籍した。

 【小林宏 主な成績】

《在籍14年 1997(H9)年~2010(H22)年/通算17年3球団》
 登録名:宏之(1997年~2010年)、宏(2010年4月6日~)
 背番号「41」

328試合
74勝
69敗
29セーブ
勝率
防御率 3.54
1247.0回
157先発
22完投
4完封
3無四球試合
1080奪三振(球団歴代9位 現役通算/1135奪三振)
491自責点
62暴投
1207被安打
132被本塁打
331与四球、35与死球

◆セ・パ交流戦 MVP 2005年
◆月間MVP 2004年8月/投手
◆オールスターゲームMVP 2007年・第1戦

2004年マリーンズファンブックから

(次回)⇒ 出来事編(45)《無料》胴上げ阻止、神戸3連戦 (1995年)


【マリーンズ略史 92~05 INDEX】

 【年度別出来事編】

【~1991(平成3)年】
(1)《無料》『千葉移転前夜』
  (25)《無料》 オリオンズ~マリーンズ ファンクラブ略史
【1992(平成4)年】
(2)《無料》『千葉移転元年 4月ダッシュも最下位に沈む』
  (42)《無料》移転直後の快進撃 (1992年)
【1993(平成5)年】
(3)《有料・冒頭試読》『最下位脱出も大差の5位に低迷』
【1994(平成6)年】
(4)《有料・冒頭試読》『八木沢監督休養、2年連続5位に終わる』
1995(平成7)年
(5)《有料・冒頭試読》『球団改革断行、千葉移転後初のAクラス』
  (21)《無料》風しん蔓延で主力が消えた14日間(1995年)
  (45)《無料》胴上げ阻止、神戸3連戦 (1995年)
【1996(平成8)年】
(6)《有料・冒頭試読》『投手充実も、得点力不足否めず5位低迷』
【1997(平成9)年】
(7)《有料・冒頭試読》『中盤反攻も迫力不足否めず最下位に沈む』
【1998(平成10)年】
(8)《有料・冒頭試読》『18連敗「七夕の悪夢」もチーム力は向上気配』
  (20)《有料・冒頭試読》なぜ18連敗を喫したのか? (1998年)
  (22)《無料》ユニホーム応援が広がったのはロッテから (1998年~)
  (33)《無料》黒木2冠と小坂の盗塁王騒動(1998年)
【1999(平成11)年】
(9)《有料・冒頭試読》18年ぶり「七夕首位」も、連敗喫して4位低迷』
  (18)《有料・冒頭試読》熱く育てた山本監督の5シーズン (1999年~)
  (28)《無料》18年ぶり首位「七夕の歓喜」狂騒曲
  (38)《無料》前半快進撃支えた「ボーリック神話」(1999年)
【2000(平成12)年】
(10)《有料・冒頭試読》『4月出遅れ5割届かず5位低迷』
【2001(平成13)年】
(11)《有料・冒頭試読》『世代交代、福浦首位打者、小林雅パ記録もエース後半離脱』
【2002(平成14)年】
(12)《有料・冒頭試読》『開幕11連敗が響き借金5の4位に終わる』
  (39)《無料》あわや、開幕連敗記録に王手(2002年)
【2003(平成15)年】
(13)《有料・冒頭試読》『終盤に先発安定、9月快進撃も4位で山本監督辞任』
  (47)《無料》NPB記録/リーグ記録/珍記録 (2003年)
【2004(平成16)年】
(14)《有料・冒頭試読》『ボビー復帰、新制度プレーオフ進出に0.5ゲーム差』
  (17)《有料・冒頭試読》「ボビーマジック」とは何だったのか(2004年)
  (19)《有料・冒頭試読》巻き込まれた、球界再編騒動 (2004年)
【2005(平成17)年】
(15)《有料・冒頭試読》『プレーオフで逆転優勝、阪神破り31年ぶり日本一』
(16)《無料》(付録)『ポストシーズン詳細、二軍合わせて6冠王者成』
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 【選 手 編】

(23)《有料・冒頭試読》チーム支えたエースの苦悶・黒木知宏(1995~2007年在籍)
(24)《有料・冒頭試読》二軍成長記・福浦和也(1994~2019在籍)
(26)《有料・冒頭試読》ルーキーからフル回転左腕・藤田宗一(1998年~2007年在籍)
(27)《有料・冒頭試読》低迷期支えたエース、復帰後はリリーフで日本一・小宮山悟(1990年~1999年、2004年~2009年在籍)
(29)《有料・冒頭試読》打線を支え愛された背番号6・初芝清 (1989年~2005年在籍)
(30)《有料・冒頭試読》抑えの切り札への道・小林雅英(1999年~2007年在籍)
(31)《有料・冒頭試読》オリオンズ最後の戦士・堀幸一(1989年~2009年在籍)
(32)《有料・冒頭試読》マリーンズ初タイトル剛腕エース・伊良部秀輝(1988年~1996年在籍)
(34)《有料・冒頭試読》マリーンズ初の新人王、盗塁王・小坂誠(1997年~2005年在籍)
(35)《有料・冒頭試読》強気なマウンド、マリーンズ初代クローザー・河本育之(1992年~1999年在籍)
(36)《有料・冒頭試読》「14打席連続出塁」の大記録樹立・南渕時高(1990年~1997年在籍)
(37)《有料・冒頭試読》マリーンズ初の最優秀救援投手から手術へ…・成本年秀(1993年~2000年在籍)
(40)《有料・冒頭試読》7年目のブレーク「サンデー晋吾」(1994年~2013年在籍)
(41)《有料・冒頭試読》裏から支えたバイプレーヤー・諸積兼司(1994年~2006年在籍)
(43)《有料・冒頭試読》先発の柱サブマリン・渡辺俊介 (2001年~2013年在籍)
(44)《有料・冒頭試読》中継ぎ切り札から先発の柱へ・小林宏之(1997年~2010年在籍)


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