見出し画像

《有料・冒頭試読》【マリーンズ略史 92~05/-43- 先発の柱サブマリン・渡辺俊介】

(写真 ルーキーイヤー、2001年のマリーンズファンブックから)


(43)先発の柱サブマリン・渡辺俊介

    (2001年~2013年在籍)

 「世界で一番低いところから投げる投手」と言われ、マリーンズを代表するアンダースローだった。2005年にはキャリアハイとなる15勝をマークし、ローテーション投手としてリーグ優勝に貢献、日本シリーズでは阪神打線を完封した。
 アンダースローに転向したのは中学生時代だったが、大学まではコントロールに難があり、エースの座は手に出来なかった。社会人・新日鐵君津時代に花開き、2000年の都市対抗野球で優秀選手賞を獲得した。その年のドラフト4位で入団した。
 「たまに(指が)地面をこすっちゃう」というサブマリンは即戦力と期待されながらも2年間低迷した。自らのピッチングを見つめ直し、試行錯誤しながら3年目から浮上し、以降9シーズン20試合以上で先発を務めた。今回はその苦悩した2年間にスポットを当て、サブマリンを思い出したい。 

 【初勝利は初完封、初完投】

 即戦力と期待されての入団だった。初登板は1年目の2001年4月25日のオリックス4回戦(神戸)だった。開幕は二軍で迎えたがリリーフとして調整し、出番を待っていた。初登板は先発だった。雨で中止になると初登板も流れる予定だった。「ナイターだったけれど、朝9時頃に目が覚めて…」と苦笑して振り返るほど緊張していたという。5回を投げて3安打1失点「気を遣った」という四球は2つだった。十分な合格点かと思われたが、自身は不安を感じた。「力の違いというか…。試合の中で感じました」。その後はリリーフに回ったが、初黒星を喫するなど結果を出せず二軍での再調整を命じられた。
 二軍に戻ると、先発としてマウンドに上がった。7試合に先発したが、試合中盤まで試合を作った。そして9月に一軍から再び声がかかった。9月3日のダイエー25回戦(福岡D)に2度目の先発。初回から打線の援護も受けテンポ良く投げ込む。終わってみれば、ダイエー打線に9安打を許しながら、初勝利を完封で飾った。
 ルーキーイヤー終盤はローテーションに加わり、初勝利後は2試合に先発して1勝1敗だった。結局、13試合に登板し6試合に先発して2勝2敗、防御率は2.66だった。渡辺俊は「勉強になった1年だった。やっていけそうと自信になったが、四球という課題は直さないと」と、50.2投球回で23与四球を反省した。

 【苦悩の一年を乗り越えて】

ここから先は

3,789字 / 1画像
この記事のみ ¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?