マガジンのカバー画像

あしたの小窓から。

723
小窓のむこうに、ちいさな「あした」が見える。 ここでは音楽、教育、投資、霊性などについて、考えたり感じたりしたことをつれづれに綴っています。
運営しているクリエイター

2020年1月の記事一覧

空に穴があいた夜。

空に穴があいた夜。

昨晩、QUEEN + ADAM LAMBERTの『THE RHAPSODY TOUR』を観た。

この公演のチケットを申し込んだのは、昨年5月末。それから半年経つうちに「クイーンが観たい」という気持ちも薄れ、昨日は正直言ってそれほど期待感はなかった。

でも、それがよかった。
ライブは、今まで観た中でも屈指のステージだったからだ。

曲がいいのもあるけれど、何よりボーカルのアダム・ランバートが凄か

もっとみる
そそうを許す寛容さ。

そそうを許す寛容さ。

たとえば、ファミレスで隣の席の赤ちゃんが水をこぼす。
その時、あなたはどんな反応をしますか。

びっくりする? あらあらと思う?
それとも微笑む? 怒り出す?

あるいは、赤ちゃんのどんなそそうまでは、許容できるだろうか。
大きな声を出すこと、うんちをトイレでできないこと、夜泣きをすること...etc.

昨日、躾(しつけ)のことを考えていて、

どのようなしつけ方になるかは、親や周りの大人の寛容

もっとみる
躾(しつけ)って怒んなきゃダメかな。

躾(しつけ)って怒んなきゃダメかな。

昨日アルバイトに行った障がい者施設に、おなじ言葉を何度も繰り返す利用者さんがいた。

発音が不明瞭だったので、最初は意味のあることは言っていないのかと思ったが、しばらく聞いているとそれは

「うるさい!」
「いい加減にして!」
「こっち!」
「帰るよ!」
「だまれ!」

だった。

彼はこうした言葉を周りの大人たちからぶつけられてきたのだ。

その言葉をききながら、躾(しつけ)のことを考えた。

もっとみる
僕たちはどうしてこんなに脅かされているんだろうね。(メルマガ『生きているQ』より)

僕たちはどうしてこんなに脅かされているんだろうね。(メルマガ『生きているQ』より)

この記事は、㐧二音楽室のメルマガ『生きているQ』の配信記事を加筆修正してお届けしています。(配信登録はこちらからどうぞ。)

こんばんは。澤です。

聴いてくださり、
ありがとうございます。

先日、大阪の石切で開かれた
円坐と家族についての場に
参加してきました。

そのうちの一部、
本編ではなく
終わった後の雑談でした話を
こんな感じで記事にしました。

「障がい者」ではないけれど、
社会に適

もっとみる
「こんな自分に見られたい」

「こんな自分に見られたい」

たくさんの人の話を聞き、おしゃべりを交わしていると「こんな自分に見られたい」という思いが殆ど無意味であることに気付かされる。

なぜなら相手の前に現れる自分は、その時に話す言葉と同じように相手の存在に呼応して現れるからだ。

もっと言うと、そうならないと会話がうまく流れない。「こういう私として見て」という操作を会話に加えると、自然な流れにゴツゴツとした違和感が挿入され、打ち解けた空気が霧散するから

もっとみる
妖精たちのいるところ。

妖精たちのいるところ。

数日前にこんな記事を書いた。

世界を「自然」と「社会」に分けたならば、自閉症者は「自然」の中でどう生きていくかに思いを巡らせ、そうでない人は「社会」での利害調整に思いを巡らす。

でも「自然」と「社会」の配分は 100:0 と 0:100 だけでなく、自閉症でなくても社会での利害調整より自然界の中での生き方に意識が向く人がいるよな(僕もどうやらそのタイプらしい)、という記事だった。

昨日、大阪

もっとみる
幸せは薄れてゆく。

幸せは薄れてゆく。

新月の今日は、大阪と奈良の境目にある石切に行き、「円坐」や「家族」についての場に参加してきた。

いま、その帰りで鶴橋駅から出発する近鉄アーバンライナーに乗り、距離が離れるごとにそこで語られたことやいくつかの場面のディテールが余韻を残して薄れていくのを感じている。

世の中には実にさまざまな人がいて、実にさまざまな家族がある。それぞれがさまざまな成り行きで出会い、火花のようにさまざまな出来事が起こ

もっとみる
陰険と温厚。

陰険と温厚。

今朝、奥さんがちょっとうっかりして忘れていたことがあった。忘れるだろうなと思っていた僕は、予想が当たって笑った。他愛のない日常の一コマだ。

でも、ふと思った。僕がもし陰険だったら、このうっかりを責めて凹ませることもできるんだな、と。そう思うと、僕たちの日々の生き心地というのは、いとも簡単に他者によって左右されてしまうものなのだと気づかされる。

もし僕が陰険な親の家の子どもだったら、恐らく他者の

もっとみる
自然と社会のはざま。

自然と社会のはざま。

以前も紹介したこの記事の

この表現が気になっている。

社会的周縁に存在し、自然界の中で自分たちがどう生きていくかに思いを巡らす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物がいる——前者こそが自閉症者であることは、改めて指摘するまでもないだろう。

僕は自閉症者ではないが、もはや「集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物」で

もっとみる
もうひとつの筋道。

もうひとつの筋道。

今週末、25日に開催予定だった『聞くことのヤバみ』という催しを、昨晩、中止することに決めた。

正確にいうと、決めたというよりは、いっしょに主催する「ふなさん」こと吉橋久美子さんとやり取りしているうちに「これは違う」と気づいたのだ。

もともとこの場は昨年二人で開いた『聞くことの愉しみ、聞くことの深み』の続編という位置付けだった。

豊かだったあの場から一年を経て、お互いどんなふうになっているか。

もっとみる
共感、同情、共鳴。

共感、同情、共鳴。

昨日の話、

に続いて、これもこの間『listen.』で話したことなんだけど、「共感」というのには、二つの種類があるのではないかと考えている。

一つは話を聞きながら「それはつらかろうね」とか「それはうれしかったね」と相手の気持ちを想像して、同じ気持ちになろうとすること。これは他の言葉だと「同情」に近い。

もう一つは、相手の気持ちを想像しようという努力をしてないにもかかわらず、

(((ぽーん)

もっとみる
鉄棒と重力。

鉄棒と重力。

憧れの人がいる。
その人になろうとして努力し、なれずに凹む。

そんな経験はあるだろうか。
僕はある。幾度となくある。

このあいだ『listen.』でおしゃべりしていて、そんな話になった。

憧れの人のような「できる」自分として過ごしているのだけど、思いもよらない時に急にできなくなってポカをする。意識

話をしてくれた人はそれをよくないことと捉えていたようだけれど、僕にはそうは思えなくて、思わず

もっとみる
生活の雑感。

生活の雑感。

「餅を煮る」 最近、我が家の朝食は、切り餅を煮てコーンポタージュにつけて食べるというもので、これがすこぶる美味しい。
 また、何度もつくっているうちに餅の煮加減がわかってきた。固体から掛け布団ぐらいになる頃に上げる。煮すぎてしまうと濡れタオルのようになってしまうので注意が必要だ。別にそれでもおいしいのだけれど。
 あと、「餅を煮る」という言葉自体が発音してみると、妙に心地よい味わいがあって好きだ。

もっとみる
楽園かと。

楽園かと。

今日の僕は、障がい児のデイサービスにいた。
障がいをもつ人のショートステイに続いて、二つ目の障がい関係の施設。その初出勤だった。

ここにはひょんなことから関わることになった。
2020年になってすぐの頃、何年かに一度しか連絡をとらない福祉の専門学校の先生から紹介があったのだ。

すでに仕事はあったけれど、この唐突な連絡に縁を感じて、今日に至った。

はじめて会った「障がい児」と呼ばれる子どもたち

もっとみる