餅を煮る

生活の雑感。

「餅を煮る」

 最近、我が家の朝食は、切り餅を煮てコーンポタージュにつけて食べるというもので、これがすこぶる美味しい。
 また、何度もつくっているうちに餅の煮加減がわかってきた。固体から掛け布団ぐらいになる頃に上げる。煮すぎてしまうと濡れタオルのようになってしまうので注意が必要だ。別にそれでもおいしいのだけれど。
 あと、「餅を煮る」という言葉自体が発音してみると、妙に心地よい味わいがあって好きだ。

「つらさについて」

 冬の早朝は寒くて眠い。しかし、それがつらい日とつらくない日がある。
 僕はいろんな仕事をしてきたが、同じようにつらいものとつらくないものがある。いろんな人に会うこともそうだ。
 つらいというのは、もしかすると気温や睡眠時間、仕事の負荷や人の性質とは関係ないところで起きる感覚なのではないか。そんな気がする。

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「間違えのない仕事」

 最近のスーパーのレジは、お釣りが自動で出てくるようになっていて、店員さんの数え間違いがなくなった。僕は様々な仕事の中でもこの「間違えないように」という仕事にかかるプレッシャーが苦手だったので、これは大変いいことだなあと思う。
 機械の特徴は「間違えないこと」だ。そして人間の特徴は「間違えること」。でも、間違えて失敗したとき、そこにその人なりの学びがある。「私、失敗しないんで」は、いい時とそうでない時があるのだと思う。

「できなくなるということ」

 障がいをもつ人や障がい児とふれるようになって、語弊があるかもしれないけれど「できない」ことは恩寵かもしれないと思うようになった。「できない」ことが他者の居場所をつくり、「できない」ことで人のありがたみを知る。「できない」と知っている人の潔さや自然さが「できる」人たちの胸を打つ。
 僕自身、自分に「できない」ことがわかってきているなと思う。それにつれて、だんだんいきいきとしてきているのが分かる。前はなんでも「できる」方がいいと思っていたのだけれど。
 僕らは育って老いて亡くなっていくわけだけれど、それは「できる」から「できない」への道と言っていい。昔はそれがいやだったけれど、いまはそれってもしかしたら「らくになる」のかもしれないなと思っている。

「なにか」

 さっき、なにかいいことを思いついて、これはどこかに書こうと思っていたのだけれど、そのことをすっかりわすれてしまった。悔しい。

* * *

僕はこんなことをあてどもなく考えながら暮らしている。他愛もないことばかりだけれど、自分の心をとらえた何かだ。

こうした雑感は、奥さんに話すくらいであまり外に出ることがない。「なにか」のところで書いたみたいに、思いついたかと思ったら夢をみた夜のように忘れてしまうこともしばしばだ。

人と会うことは、こうしたどうってことないことを話せる良さがある。
ふうんとか、へぇで終わるようなオチのない話でも、息に乗せて発声されるだけで落ち着くようなところがあるのだ。

そして、人の暮らしというのは、案外こうしたどうってことのない思いとともにあるような気がする。聞くこと、聞くことがあまりないだけで。

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