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躾(しつけ)って怒んなきゃダメかな。

昨日アルバイトに行った障がい者施設に、おなじ言葉を何度も繰り返す利用者さんがいた。

発音が不明瞭だったので、最初は意味のあることは言っていないのかと思ったが、しばらく聞いているとそれは

「うるさい!」
「いい加減にして!」
「こっち!」
「帰るよ!」
「だまれ!」

だった。

彼はこうした言葉を周りの大人たちからぶつけられてきたのだ。

その言葉をききながら、躾(しつけ)のことを考えた。

子どもに怒って、気勢を削いで、従わせる。
そんなふうに子どもをしつけている大人を見ることは多いし、しつけはそうしたイメージで捉えられている気がする。

ダメなことをすると怒られる。怒られないためにダメなことをしない。
それは人間社会のルールであり、生きていくために子どもが学ぶべきことであるかに思える。僕にもその教えは染み付いている。

けれど、怒られて萎縮している人を見るのはつらい。
それに、大人になるとわかることだけれど、僕たちは怒られないために生きているわけじゃない。

時には怒られるとわかっていてもしなければならないこと、言わなければならないことがある。そういうとき、怒りは相手を萎縮させるものではなく、むしろ自分を理解してもらうためのものだ。

僕たちが本当の意味で行動を改めるのは、怖いからではなく、怒りの中にある相手の痛みに触れたときだ。「ああ、悪いことをしたな」と心から感じてはじめて、僕らは根本的に行動を変えることができる。それは力で抑え付けられるのとは全く違う。

障がいをもつ彼の繰り返す言葉からは、彼を力で抑え付けようとした人の面影が感じられた。彼はその言葉を反芻することで、言葉に込められていた暴力を解放していたのだろうか。

だからといって、彼にそのようにつらく当たった人たちが「悪い」とは言い切れない。どのような事情があったか知る由も無いし、実際に彼は周りの人のいうことをきくことができないからだ。

それでも思う。躾ってこんなふうじゃなきゃダメなのかなと。

僕自身、子どもを育てているわけではないから「なにをえらそうに」ということを書いているのかもしれない。この先、子どもをもったらつい怒りをぶつけてしまいそうでもある。

それでも「躾ってこんな感じ」と誰もが持つ定型のイメージを書き換えられたら、子どもと大人、障がいをもつ人ともたない人、部下と上司といった上下関係の姿が変わってくるのではないかと思う。そう願いたい。

本来、それらの関係は「上下」ではないのだから。上下などという関係は誰との間にもないはずだから。

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