見出し画像

自然と社会のはざま。

以前も紹介したこの記事の

この表現が気になっている。

社会的周縁に存在し、自然界の中で自分たちがどう生きていくかに思いを巡らす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物がいる——前者こそが自閉症者であることは、改めて指摘するまでもないだろう。

僕は自閉症者ではないが、もはや「集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物」ではない。

かつてはそうだった。学校や会社に適応し「集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物」でい続けることが「自然」だと思っていた。そのことに何の疑いももたなかった。

でも、31歳の年にそれをやめてしまった。当時は会社をやめただけだと思っていたけれど、それは「集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いを巡らす人物」であることをやめる入口だったのだ。

それから十年ちかく経った今、僕は自閉症者ではないけれど「社会的周縁に存在し、自然界の中で自分たちがどう生きていくかに思いを巡らす人物」に近い暮らしを送っている。僕のまわりの友人たちもそういう人が多い気がする。

自閉症者を「自然」、そうでない人を「社会」に位置付けたとき、僕はそのどっちにも属さない「あいだの人」ということになる。「社会的周縁」というほど端っこじゃないけれど、さりとてど真ん中でもない。そこはマージナルとかエッジと呼ばれ、多くの葛藤が集まる場所だ。ここに生息するのは、けっこう骨が折れる。

僕のまわりでは、自分も含めてお金が思うほど回らない人が多いけれど、お金も自然と社会のあいだで多くの葛藤を抱えている。だから、お金のことを解決していくことが結果的に自分の課題を解決していくことになる人が多いのかもしれない。

たぶんそんな「グレーゾーン」の人たちはいっぱいいて、自然47:社会53とか、自然61:社会39とかいう配分で暮らしているんだと思う。そして、それぞれに葛藤しているんだろうな。

そう思うと、

先史時代、我々の祖先が狩猟採集に依存した生活を送っていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」に長けていた存在と、社交に長けた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献を果たしたと考えられるのだ。

というふうに、人と人とがお互いに「相補的」に機能するには、自閉症者とそうでない人と同じようにお互いを知り合うことが必要になってくる。

「あの人はだいたい私と同じだろう」なんてこと、僕の知る限りまずない。

それは相手を「聞けば聞くほど」で明らかになってくるのだ。

記事を読んでくださって、ありがとうございます。 いただいたサポートは、ミルクやおむつなど、赤ちゃんの子育てに使わせていただきます。 気に入っていただけたら、❤️マークも押していただけたら、とっても励みになります。コメント、引用も大歓迎です :-)