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「こんな自分に見られたい」

たくさんの人の話を聞き、おしゃべりを交わしていると「こんな自分に見られたい」という思いが殆ど無意味であることに気付かされる。

なぜなら相手の前に現れる自分は、その時に話す言葉と同じように相手の存在に呼応して現れるからだ。

もっと言うと、そうならないと会話がうまく流れない。「こういう私として見て」という操作を会話に加えると、自然な流れにゴツゴツとした違和感が挿入され、打ち解けた空気が霧散するからだ。

でも、思春期に「モテたい」と思った時から今に至るまで「こんな自分に見られたい」という思いは消えたことがない。

人間てやつは自分の顔さえしっかり見るつくりになっていないのに、そんなことを思いはじめるから大変だ。若気の至りで僕も整髪料を取り出したり、ニキビを気にしたり、やさしい自分を演出したり、「モテる自分」になるためにいろんなことを思い悩んだ。

でもいま、それらを意識することはほぼない。
そして「こうすればモテる」というセオリーとは全く違う、縁としか呼びようのないかたちで出会った人と結婚した(なんだったんだ、あの悩みは!?)。

よく考えれば、どこでなにをして、どんな声色でなにを言っているのか、といった自分のことを一番よく見ているのは、僕に会った人のほうだ。当の本人はそんなことすぐに忘れて「たのしかったな」と次に行ってしまう。

そんなに無頓着なら「こんな自分に見られたい」なんて思わなければいいのに、その思いだけは消えないんだよなぁ。

で、その操作をしてしまった時に、首輪につながれたワンちゃんみたいにグイッという痛みが体に残る。

ワンちゃんだってもっと広々とした空き地で走り回りたいだろうにね。それでも「自分」を自分でつくれると錯覚してしまうのが人のサガというものかもしれない。

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