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本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑨ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑨ 

2光秀の年齢 6人格形成 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 240728 240801 240809 

そ第78話⑨ 土佐は僻遠の彼方 所要時間

 【参照】 ←テ第78話 ←◎第78話 ←第78話
 【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
     そ第78話① そ第78話② そ第78話③ そ第78話④
     そ第78話⑤ そ第78話⑥ そ第78話⑦ そ第78話⑧

信長は、素早かった。
 信長は、すでに、動き出していた。
 五月七日、「四国出陣命令」【 重史 012 】

元親は、油断していた。
 
土佐は、僻遠の彼方。
 元親は、このような機運を察知することができなかった。
 地理的要因 → 情報不足 → 危機意識の欠如 = 油断 。
 信長を甘く見ていた、と言うことである。
 決断するのが、遅かった。
 否、遅すぎた。

結果、頼辰は、間に合わず。
 これもまた、宿命。
 「是非に及ばず」

 そして、このことが、光秀の意思決定に大きな影響を及ぼすことになる。

当時の交通事情。
 
土佐からの、所要時間について。
 
少なくとも、一ヶ月以上は、かかったものと思われる。

 したがって、頼辰が、到着した頃には、すでに、山崎の合戦(六月十三日)
 が終わっていた。
 光秀は、もう、この世にいない。
 おそらく、頼辰は、そのまま、土佐へ引き返したのだろう。
 それ故、【 重史 042】(「石谷家文書」)が、後の世に残されたのではない
 だろうか。 
 
 
なお、数値は、以下①②を根拠とした。

 ①摂津→土佐 凡そ、一ヶ月。 
  天正六年1578十二月十六日付、石谷頼辰宛長宗我部元親書状。
  この時、頼辰は、光秀とともに、荒木村重の有岡城攻めに参陣していた
  らしい。

  「去る月十七日、御礼、一昨日、拝披候」
                       (「石谷家文書」)

 ②?→土佐 凡そ、一ヶ月半~二ヶ月。
  天正八年1580十一月二十四日付、羽柴筑前守宛長宗我部元親書状。
  元親は、秀吉とも、接触していた。
  この年の、秀吉は、多忙だった。
  転戦、また、転戦。
  播磨・但馬・因幡・伯耆。
  それ故、発送地がよくわからない。

  この書状が、手元に着くのは、翌年一月頃だろう。
  その頃、姫路城は、改修工事中。
  終盤(仕上)の時期である。
  おそらく、秀吉は、そこいるだろう。
  とすれば、着地は、播磨となる。
    
  「六月十九日の御返礼、八月中旬、拝見を遂げ候」
  「九月朔日御報、去る月中旬、下着」
                        (「吉田文書」)



 ⇒ 次へつづく

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