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生活の中の小説

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日々、心を通り過ぎていく一瞬の風景を切り取って、小説にしていきます。小さな物語を日々楽しんでいっていただければと思います。
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#掌編

小説 時計技師

 円城は、いつも時計を直していた。来る日も来る日も。その店には、毎日多くの客がやってきて、壊れた時計を円城に預けていった。よくもまあ、これほどまでに時計が壊れるものだ。

 俺は自分の時計を壊したことなんて一度もない。いや、壊れるほどに物事に執着したことはないのかもしれない。

 電気を時計に応用したのはイタリア人のツァンボニだという。それが定かではないが、以来様々な技術発展が時計を支えてきた。

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小説 渦

 巻き込まれた。その渦に。
 不意に襲ってきた、その激情。恋なんて、捨てたのだ。
 燃えるゴミに紛らせて。なのに。

 蟻地獄だよ。底であなたが待っている。泡沫、春の夜の夢。
 体も麻痺しちゃってさ。
 私を特区にして、他人を介さないでほしい。
 
 夜のポエマーかよ。指先で、温もりを探る。
 海の底で、息もできないまま、口づけを交わした。
 
 乾いた唇を、言い訳で濡らす。吸い込まれてはいけない

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小説 天才

小説 天才

 天才なんだよ。あいつは。

 宮岸は、よくそう言った。あいつは天才だ。あいつは。
 あいつとは、弟の豊のことで、豊のことを宮岸は天才と呼んだ。

 幼い頃から宮岸はサッカーをやっていた。兄に憧れて弟もサッカーを始めた。才能の差にすぐに周囲が気づいた。しかし、言わなかった。言えなかった。
 宮岸本人もまた弟の才能に気づいていた。幼時にそれとなく、自己の持つ才覚の限界を見定めていた。ああ、こんなにす

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小説 だから僕は真夜中にコーヒーを飲む

「眠れなくなるよ」
 礼美が言った。

 僕はコーヒーを飲んでいた。時間は午後10時を回っていた。
「大丈夫。カフェインが効かない体質なんだ」

「私なんて、3時以降に飲んだらもうアウトだけどね」 
 彼女はコーヒーをあまり飲まない。飲まないのに、食事が終わるとコーヒーを入れてくれる。カップの横にはミルクが一つ置いてある。彼女は僕の好みを知っているのだ。

 夕食後に飲み、あまったコーヒーを風呂上

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小説 シーラカンス

 シーラカンスは、古生代のデボン紀に出現してから現在まで、それほど体の形を変えていない。正雄はそう聞いた。

 化石で見つかるシーラカンスが、現在の姿とまったく同じであるわけではないが、それでも形の変化はわずかであり、少しずつゆっくり進化を遂げたのだという。

 生きた化石。シーラカンス。検索すると画像はたくさん出てきた。パソコンのディスプレイには古代の形をとどめる魚の姿があった。

 いつだった

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小説 シャガール

小説 シャガール

 彼女は、シャガールの絵を好んだ。

「色が、色として生きているの。それがシャガールだと思う」
 彼女はそう言った。彼女は小さなバーに勤めていて、夜な夜な見知らぬ男と言葉を交わした。

 週末になると、彼女は僕の家にやってきた。
 彼女は何も言わなかった。彼女は石になっていた。
 
 
 ある日、彼女はシャガールの画集を買ってきた。
「愛を鳴らすがうまいの。シャガールは」
 そう言った。
 僕は絵

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小説 灯台

小説 灯台

  灯台が立っている。力強く、岬の上に。
 僕と真也子は灯台を見上げていた。
 コンクリートの土手に波が打ち付け、しぶきを上げた。

 昔、ここに美しい浜辺があった。海の家がいくつも並び、海水浴を楽しむ人々で溢れていた。幼い頃を思い返すと、蘇るのは浜辺に連なる海の家であり、そこを行き交う人々の笑顔ばかりである。

 小さい頃、あの灯台へ行った。小学生の頃だ。
 真也子も一緒だったと記憶している。彼

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小説 目玉焼き

小説 目玉焼き

 目玉焼きは、完熟がいい。私は完熟が好きだ。
固い方がいい。固い身をぐっと噛んで、崩れていく黄身の感覚が好き。

 でも、彼は半熟が好きだ。
 私が目玉焼きを作ると、彼はいつも文句を言う。もっと、柔らかい方が好きだと。

 でも、私は完熟にする。
 彼の好みとは違うものを作る。それは私のささやかな抵抗。
 なんでも、彼に合わせては面白くない。

 静かな朝食の時間、彼は目玉焼きを見ていつもと同じ文

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小説 三角点

小説 三角点

 僕らは、幼馴染だった。
 陽菜、正樹、僕。僕らはいつも一緒にいた。

 正樹は地図が好きで、将来は地図を作る人になりたいと言った。陽菜は、おとなしい子だったが、芯が強く、一度こうと決めたらなんでも最後までやりきった。

 三人で、よく地図を作って遊んだ。画用紙に架空の町の地図を描き、自分たちだけの町を作る。そこは僕らの町だった。僕らしか入ることのできない特別な町だったのだ。

 出来上がった地図

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小説 亀

小説 亀

 一頭の亀が隅田川の上流から流れてきた。不思議に思ってじっとその亀を見ていた。最初は亀だとは思わなかった。
 僕があまりにもじっと見ているので、周りの人間もそれにつられて見ていた。人が流れてきたのではないか。そんな風に思ったのだ。

 どんぶらこ、どんぶんらこ。
 そんな言い方は古いかもしれない。しかし、その言い方が最も適切であるように思えた。

 隅田川を一頭の亀が悠々と流されていった。泳いでい

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小説 メトロノーム

小説 メトロノーム

 チク、タク、チク、タク、
 チク、タク、チク、タク、

 メトロノームは冷静に時を刻み続けた。この時がいつか終わるのではないか。そんな気がしていた。

 彼女はメトロノームの音の振幅数を一分間60に設定した。
 チク、タク、チク、タク、
「なんだか、心臓みたい。とくんとくんって」 
 と彼女は言った。

 彼女がピアノを習うと言いはじめたのは、大学2年生の時だった。幼稚園の先生になるから、という

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小説 鶴

小説 鶴

 美咲は、鶴を折っていた。
 とても小さな手で、驚くほど綺麗な鶴を折った。
 その鶴はいまにも、飛び出しそうに思えた。

「鶴って、渡り鳥なの、知ってる?」
 と彼女は言った。

 渡り鳥。
 そうだ。鶴は日本の鳥ではない。
 ある季節だけ日本にやってきて、また次の季節には次の国へと旅立つのだ。

 「同じ場所に戻ってくるって、どういう気持ちなんだろう。故郷みたいな感じかな」
 彼女は笑った。しか

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