小説 だから僕は真夜中にコーヒーを飲む


「眠れなくなるよ」
 礼美が言った。

 僕はコーヒーを飲んでいた。時間は午後10時を回っていた。
「大丈夫。カフェインが効かない体質なんだ」

「私なんて、3時以降に飲んだらもうアウトだけどね」 
 彼女はコーヒーをあまり飲まない。飲まないのに、食事が終わるとコーヒーを入れてくれる。カップの横にはミルクが一つ置いてある。彼女は僕の好みを知っているのだ。

 夕食後に飲み、あまったコーヒーを風呂上りに飲む。

 コーヒーを飲んだら眠れなくなる、なんて中学生の話みたいだ。確かに、昔はそんな風に感じたことがあったかもしれない。しかし、それはカフェインの妙というよりも、コーヒーを飲んでいる自分に対して酔っていただけではあるまいか。今になってそう思う。


 礼美は先に寝た。
 僕はリビングでテレビを見ていた。乾いた音が響いた。遠くから車の音がしていた。

 
 妙に、世界が騒がしかった。聴覚が、際立って、世界のあらゆるノイズを拾ってくる、そんな気がした。

 夜の12時を越えた。新しい一日になった。
 僕は眠ることができなかった。新しい明日が来ることを強く恐れた。
 
 仕事を辞めた。先週の話だ。礼美にはまだ話をしていない。どうやって、言葉を繰り出せばいいのか、わからない。

  昼間はスーツを着て図書館にいった。近場の図書館に行くとばれるから、定期券で行ける一番遠い場所の図書館へと通った。スーツで毎日来館する男の存在ははたから見ると奇妙だろう。
 しかし、どこにも行く場所はなかった。世界の、どこにも。


 リビングでぼうっとしていた。一時間ほど経ったか。時間の感覚はなかった。
 僕は、コーヒーを沸かした。夜に、コーヒーメーカーが音を発する。なんだか獣の声のように思えた。

 カップを用意して、とくとくと注ぐ。ミルクを入れて、よくかき混ぜる。眠れなくなるよ。礼美の声が脳裏に響いた。

 眠れないほど、野暮じゃないさ。小さく呟く。でも、眠れない、眠りたくない。明日が、やってくるから。
 だから僕は真夜中にコーヒーを飲む。一口、二口。苦味が体に広がっていく。それでも、うとうと、眠気が静かにやってくる。

 眠るな、俺の体。今は、カフェインで覚醒しろ

 もしも、酒が飲めていたら、際限なく酒を飲んでいたかもしれない。あらゆることを忘れたくて、あらゆる苦悩から逃れたくて。

 逃げた、そう思われるのが嫌だった。礼美に、強い自分を見せたかった。それが、間違いであることにうすうす気づいていた。でも、うまく甘える方法を見つけられなかった。
 明日も、彼女はいつものようにコーヒーを出すだろう。ミルクを一つつけて。いつものように。
 
 結局、寝たのは夜中の4時だった。街は静かだった。街も寝ていたのだ。朝になればまた世界が目覚める。
 僕も数時間したら家を出なければいけない。心配を、かけてはいけない。
 
 

 翌日も、変わらず家を出た。秘密の出社だった。行くべき会社はどこにもないのに。もう少し、忍耐できれば仕事を続けることができたのではないか。色々な事を思う。
 
 しかし、結局考えはまとまらずに、呆然としたまま時間だけが過ぎていく。目の前には、真っ白な紙だけが残る。どんなアイデアもでない。

 
 家に帰る。いつもと同じように夕飯を食べた。そしていつもと同じようにコーヒーが置かれた。

 なぜか、その日はカップが2つ置かれた。僕は礼美を見た。礼美のカップにはミルクが二つ置かれている。
「ちょっとは薄めないと、完全に眠れなくなるからね」
 と礼美は言った。彼女はコーヒーをほとんど飲まない。眠れなくなるからだ。

「眠れなくなるんじゃないの?」
「あなたも、いつも寝てないじゃない? それに、仕事にも行っていない」
 僕は思わず目を背けた。言葉が出てこなくなった。カフェインが効きすぎているんだ。今になって、カフェインのせいにしようとした。
 礼美はすべてを知っていたのだ。全部、知っていた。
「どうやって知った?」
 僕は礼美を見た。大きな瞳、黒い髪。いつもの礼美がそこにいた。
「知り合いが見たって。後は、勘。女の」
 君は、どうやら僕が思っている以上に鋭い人だ。君は、全部知っていた。
 知っていて、何も言わなかった。君は無言で僕に寄り添おうとしてくれたのだ。
「さて、どうしますか?」 
 彼女がコーヒーを一口のんで、小さな笑みを浮かべて僕を見た。
 出会った頃のことを思い出した。お互いまだ十代で、多くの時間を持っていた。
 毎日の摩擦の中で、暮らしの上での余白を失っていった。毎日の継ぎ目を恐れるくらいに。
「少し、昔話をしよう」
 僕は言った。
「そうね。それがいいわ」
 礼美はそう言った。
 僕らは夜にコーヒーを飲んだ。彼女は僕に付き合って起きているつもりなのだろう。
 きっと、僕について来てくれるつもりなのだろう。
 
 僕らの言葉は尽きなかった。結局、眠りに落ちたのは朝になってからだった。

 また目が覚めたら、新しい一日が始まるだろう。新しい生活は始まるだろう。カップは空だった。シンクにカップを二つ並べて置いておいた。
 僕は希望を抱いたまま、寝た。

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