小説 シャガール
彼女は、シャガールの絵を好んだ。
「色が、色として生きているの。それがシャガールだと思う」
彼女はそう言った。彼女は小さなバーに勤めていて、夜な夜な見知らぬ男と言葉を交わした。
週末になると、彼女は僕の家にやってきた。
彼女は何も言わなかった。彼女は石になっていた。
ある日、彼女はシャガールの画集を買ってきた。
「愛を鳴らすがうまいの。シャガールは」
そう言った。
僕は絵がよくわからない。シャガールの名前も初めて知った。原色が力強く映える。心臓をぐいとつかむような色彩の強さを感じた。
「私は、灰色なんだよ」
彼女は独り言のようにそう言った。
彼女の言葉のように思えなかった。どこかから借りてきたように思えた。彼女はどこか遠くを見ていた。
彼女は灰色の人形だった。目に力はなかった。
月がキレイだった。
僕らはコンビニでその日の夕食を買った。
彼女は月の光に手を伸ばした。彼女の手はむなしく空を切った。
「今週は、来ないよ」
と彼女は言った。どこへ行くのか。
僕はそう尋ねた。彼女は何も答えなかった。
彼女には別の男がいるのかもしれない。そう思った。
そもそも、彼女が僕といること自体よくわからなかった。
きらびやかな夜の世界を生きる彼女が。
どうして、週末になると僕に会いに来るのだろう。
宣言通り、彼女は来なかった。
僕は彼女が家に置いていったシャガールの画集を見ていた。色が踊る。魂が、震える。
君は、灰色だ。
僕は、何色だ?
シャガールの絵は黙したまま語らない。ただ、絵画は色彩を放ち、感覚を虚無の時間の中に残すばかりである。
もう彼女は来ないだろう。そんな気がした。
空が暗かった。月はもう見えなくなっていた。
月曜日が来た。朝から雨が降っていた。
僕は午前中、次回入稿分の記事を書き上げた。
その日の午後に、彼女が部屋にやってきた。
「来ちゃった」
「仕事は?」
「やめた」
「どうして?」
彼女は、机の上にあるシャガールの画集を開いた。
パラパラとめくって、ぱたんと画集を閉じた。沈黙が流れた。しばらく空白を挟んで、言葉を紡いだ。
「明るい色の場所で、生きていこうと思って」
「ここが、そう?」
「うん」
彼女は小さくうなずいた。
「僕は、何色だろう?」
僕は彼女に尋ねた。
「灰色、じゃない?」
「僕も灰色なのか」
「同じ色だから、いいんじゃない? だから同じ色に共感できる」
君は、灰色。僕も、灰色。
なるほど。僕らは同じ色の人間だったのだ。
だからシャガールに惹かれるのだ。
原始の色の饗宴。永遠の理想への憧憬。それが、僕らの形なのだ。
「早く、次の仕事探さないとね」
と彼女は笑った。
雨はもう上がっていた。光の筋が、空から注いでいた。
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