小説 メトロノーム
チク、タク、チク、タク、
チク、タク、チク、タク、
メトロノームは冷静に時を刻み続けた。この時がいつか終わるのではないか。そんな気がしていた。
彼女はメトロノームの音の振幅数を一分間60に設定した。
チク、タク、チク、タク、
「なんだか、心臓みたい。とくんとくんって」
と彼女は言った。
彼女がピアノを習うと言いはじめたのは、大学2年生の時だった。幼稚園の先生になるから、という理由だった。
ピアノを弾かせてほしいといって、彼女は僕の家にやってきた。僕の実家には大きなアップライトピアノがあった。
彼女は夢中でピアノを弾いた。
彼女は幼稚園の先生になりたいなんてまったくわからなかった。僕は彼女がちゃんと将来を考えていることに驚いた。
一人で自分の夢を見つけた彼女に僕は嫉妬していた。
「昔は、あなたもピアノやっていたんでしょ?」
「ああ、そうだけど」
幼い頃は僕もピアノを習っていた。しかし、真面目に取り組まずに、すぐにやめてしまったのだ。
「小さい頃からやっていれば、うまくなったのにねえ」
彼女は何度も同じフレーズを繰り返し弾いた
「何回弾いても、うまくいかないんだよ。大人になってからじゃダメなのかなあ」
彼女は自分の指先を見つめて言った。
彼女はたまに家に来てピアノを弾いた。彼女は仙台から上京して、一人暮らしのマンションにピアノはなかった。
ある日、僕の家で彼女はメトロノームを見つけた。
「これ、メトロノーム?」
「ああ、そうだよ。学校の音楽室とかなかった?」
「あったけどさ。そんなに触るものでもないし」
彼女は物珍しそうにメトロノームの針を揺らした。
チク、タク、チク、タク、
時を刻む、メトロノーム。
富士山のような台形のシルエットに、細長い針が前方で揺れる。
「なんか、落ち着く」
彼女は言った。
僕はメトロノームの音で落ち着いたことはなかったけれども、彼女にそう言われるとなんだか心が落ち着くような気がしてきた。
「一つ一つ、積み重ねていくようなで気持ちいい。チクタクチクタクって。やっぱり一歩一歩だね」
メトロノームが振れる度、体から時間が抜けていくような気がした。時間が経つにつれ、彼女は夢へと近づいていく。
僕は、何をしているのだろう。時間が経つと共に、焦りばかりが募った。
初めは鉄のように重かった彼女の指も、次第になめらかになっていった。
「ねえ、卒業したら、どうするの?」
と彼女は言った。
卒業したらどうするのだろう。僕は、どこに行けるのだろう。
僕は何も答えなかった。僕の心情を意に介せず、メトロノームは動いた。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、
僕はメトロノームの針を止めた。
「電子ピアノを買ったから、もう大丈夫」
と彼女は言った。イヤホン付きで、音だしても平気だと。
彼女が僕の家に来ることはなくなった。
チク、タク、チク、タク、
彼女の影の消えた部屋で、メトロノームを鳴らした。僕の心臓の音と呼応するかのようにメトロノームは動き続けた。
就職活動が始まっても、自分を見つけられなかった。何もかもうまくいかなかった。彼女と会うこともなくなった。
知人の紹介で、なんとか仕事にありつけた。
学校も卒業し、社会人としての、忙しない日々が始まった。
ある時、ばったり街中で彼女に会った。久しぶりに僕らは挨拶を交わした。彼女が久しぶりにピアノを弾かせてほしいというので、僕は彼女を自宅へと招きいれた。
彼女が来なくなってから、ピアノには一度も触れていない。
彼女がピアノを弾き始めた。以前とはくらべものにならないくらい、なめらかな指使いだった。
彼女はメトロノームの振幅を設定し、揺らした。メトロノームが動き始めた。
「私さ、仕事やめることにしたの」
と彼女は言った。
「幼稚園の先生は、向いてなかった。子どもは好きだったけど、人とか、保護者との対応とか、言い訳かもしれないけど、無理だった」
彼女はピアノを弾くのをやめた。メトロノームの針も止めた。
静寂。
彼女の呼吸が聞こえた。
「何やっているんだろう。私」
彼女もまた、もがいていた、戦っていた。
自分と、自分のなかの「何か」と。
僕は、メトロノームに手を伸ばし、再び動かした。
僕の中の何かも一緒に動き始めた。
一年後、僕らは結婚した。
まだ早いんじゃないかなど色々言われた。生活はどうするんだ、とか。
でも、僕らと止めることはできなかった。
僕らは刻んでいくのだ。時を、生活を。
彼女がピアノを弾き始めた。
メトロノームを、鳴らした。
チク、タク、チク、タク、チク、タク、
チク、タク、チク、タク、チク、タク。
晴れやかな、春の朝である。
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