小説 時計技師
円城は、いつも時計を直していた。来る日も来る日も。その店には、毎日多くの客がやってきて、壊れた時計を円城に預けていった。よくもまあ、これほどまでに時計が壊れるものだ。
俺は自分の時計を壊したことなんて一度もない。いや、壊れるほどに物事に執着したことはないのかもしれない。
電気を時計に応用したのはイタリア人のツァンボニだという。それが定かではないが、以来様々な技術発展が時計を支えてきた。
機械時計に関していえば、14世紀にはすでにヨーロッパの都市には存在していた。
時間を知ることは、古来から人々の絶対的な需要があった。だから、色々な時計が生まれたんだ。
円城は時計の修理に入った。ふと、窓際においてある家族の写真が目に入った。妻と、娘。そして自分。写真の中ではみんな笑顔だった。楽しそうだ。
この世に残されたのは俺一人だ。俺だけが、この世界に残って時間を刻み続けている。
時計を直せても、人の命までは直せないさ。悪魔の力を借りればできるのか?
ならば、俺はいくらでも悪魔に魂を捧げるだろう。指先で、肉体を蘇生する。神への冒涜だろう。いや、冒涜だとするならば、この瞬間に、俺だけが生きているのは、神なる存在のある主の圧迫ではあるまいか。
あの事故で、俺だけが助かった。なぜ、俺は助かったのだ。無言の部屋で、時だけが過ぎていく。
とても古い時計だ。この時計はいつから時間が止まっているのだろう。形見なのかもしれない。ただのコレクションなのかもしれない。依頼主はどんな顔だったか、にわかには想い出せなかった。
そんなんだから駄目なんだ。お前は。
円城は手狭なアトリエで、自嘲気味につぶやいた。考えるのは自分ばかりで、相手のことなんて考えていない。
俺のために時間を使ってくれたお前のことだって。
妻の顔がぼやける。
円城は時計を一つ一つ分解していった。思い出が解体されていく。妻の顔がバラバラになっていく。娘も顔も、闇に溶けていく。
時計の小宇宙よ。まるで人体だ。部分が関係を生んで、関係が全体を作り出す。この機械式時計は、軸の部分が摩耗し、うまくゼンマイを巻けなくなっていた。
こいつだ。こいつが、時計を狂わせている。わずかな狂いが、時計のすべてを狂わせる。
新しい部品を作らなければいけない。
円城は、顕微鏡をのぞき込み、鉄を電動カッターで慎重に削って新たな軸を作る。わずかに手元を誤れば、全部終わりだ。人の心のようだよ。俺は、どこで間違えたのか。
新しい軸ができた。これで、時計はよみがえるはずだ。ピンセットで一つ一つ部品を組み合わせる。
円城はゼンマイを巻いた。
死んだ時よ、よみがえれ。小さく祈りを捧げた。
時計が動き出した。いつから動いていないのだろう。時計は命を取り戻し、新たな時を刻み始めた。
数日後、依頼主が来た。依頼主は40代の物静かな男性だった。男性は、うごく時計を見て安堵の笑みを浮かべた。「これは、母が大切にしていたものだったんです。母は父からもらったようで、祖父の形見だったんですね。直ってよかったです」
男性は、しばらく沈黙をうろついた後に、静かに言葉を紡いだ。
「母が、先日亡くなりました。70歳でした。この時計が、母の形見になりそうです。大切にします。ありがとうございました」
男性は小さく頭を下げて去っていった。円城は男性の背中をずっと見ていた。
円城は部屋に戻り、家族の写真を見た。 彼女たちは、永遠に笑い続けるだろう。同じ時をさまよい続けて。
彼女たちに、新しい時間を見せてあげることができるのは俺しかいない。
時間だけが、この世界の中で、誰にも平等に与えられるのだ。残された人間は、その時間を正しく使わなければならないのだ。
「仕事に向かうよ。また、後で会おう」
円城は、写真を伏せて、再び次の仕事へと向かった。
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