小説 渦

 巻き込まれた。その渦に。
 不意に襲ってきた、その激情。恋なんて、捨てたのだ。
 燃えるゴミに紛らせて。なのに。

 蟻地獄だよ。底であなたが待っている。泡沫、春の夜の夢。
 体も麻痺しちゃってさ。
 私を特区にして、他人を介さないでほしい。
 
 夜のポエマーかよ。指先で、温もりを探る。
 海の底で、息もできないまま、口づけを交わした。
 
 乾いた唇を、言い訳で濡らす。吸い込まれてはいけない。
 飲まれてはいけない。
 渦の中で、もがくほどに埋もれていく。

 利用しようとしてるんだろ。でも、優しいのはなぜ。
 ずるいんだよ。何もかも。

 つぶやきみたいな日記だ。秘密を、私を、忍ばせる。
 誰も暴いてくれるな。清楚に隠れた、狡猾さを。

 あなたが家を訪ねてきた。右手に誠実さを持って、左手に欲望を持って。
 聖人みたいなお面をかぶってさ。ふやけた笑みを隠すのはやめて。
 都合の良い言葉ばかり並べて、真実を覆い隠して。

 出来レースだよ。たどり着く場所は決まっている。むなしい言語ゲーム。
 朝まで酔いしれる。笑みを絶やした方の負けだ。

 愛したのか、愛されたのか。
 雲の隙間に答えは隠した。

 定まらない一人称。私、うち、あたし。全部同じ人だ。
 昨日の自分は、誰だろう。
 他人と重なる自分。自分が薄まる。無色透明な自分が鏡に映った。

 男は髪の毛まで丁寧に片づけた。
 痕跡を残さないように。過去を切り捨てるように。
 ありがとう、と言って家を出た。
 私は水を一杯飲む。体がゆっくりと目覚める。

 朝は冷静になりすぎる。早く夜になればいい。
 胡蝶の夢。まどろみの、指先。
 髪がぼさぼさだ。

 昼まで寝ていた。求人メールが沢山来ていた。どれも見ないまま消去した。
 私に何ができるんだよ。
 鏡の中の自分に問いかける。

 連絡はつかなくなった。
 真面目な言葉だけ重ねて、逃げ足だけは早い。

 渦だ。逃れられない。飲まれて、いく。いつまで。

 しかし、翌週、男は家にやってきた。
 右手にケーキを持っていた。確か、誕生日だったでしょう。
 男は言った。

 そうか。私の誕生日だ。
 時間を刻む儀式。未来に向かうとは、過去を増やすこと。
 過去もシミも増える。

 仕事で忙しかった。そう男は言った。便利な言葉よ。
 しかし、ケーキは美味しい。甘味が口に広がっていく。
 来週も会う約束をした。

 信じても、いいのか。猜疑心を殺せない。
 自身の対話が続く。
 年下の男だ、すぐにいなくなるさ。いや、そんなことないさ。

 

 なんで泣いているの。
 ある日男が尋ねた。私は泣いているつもりなんてなかった。
 ただ、涙が出ただけだよ。意味不明の返答をした。

 男は手を握った。私も握り返した。
 飲み込まれていく。これは、渦だ。
 渦。いや、これは、恋か。

 朝が来た。男は帰っていった。
 私は鏡を見た。目元は赤く腫れていた。私は、確かに泣いていた。
 なんで泣いたのだろう。

 私は水を一杯飲んだ。体が、ゆっくりと目覚めた。

 

 

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