小説 目玉焼き
目玉焼きは、完熟がいい。私は完熟が好きだ。
固い方がいい。固い身をぐっと噛んで、崩れていく黄身の感覚が好き。
でも、彼は半熟が好きだ。
私が目玉焼きを作ると、彼はいつも文句を言う。もっと、柔らかい方が好きだと。
でも、私は完熟にする。
彼の好みとは違うものを作る。それは私のささやかな抵抗。
なんでも、彼に合わせては面白くない。
静かな朝食の時間、彼は目玉焼きを見ていつもと同じ文句を言う。
「半熟にしてほしいって言っているのに」
そう言って、彼はしょうゆを目玉焼きにかける。
「目玉焼きはしょうゆだよね」
出会った時、彼はこう言っていた。なんでこんな話をしたのか。もう記憶はない。私は、塩をかけて食べる。我が家ではずっとそうだった。
一緒に暮らし始めてからしょうゆをかけるようになった。やっぱり塩の方がおいしいと思う。でも、彼がしょうゆをかけるから、それにならって、しょうゆをかけるようにしている。
慣れって怖い。気づけば、私は家の外でも目玉焼きが出たらしょうゆをかける。この前、実家に戻った時に母に指摘されて気が付いた。
生活の中で、多くの感覚が彼に染まってきたように思う。それは、別に嫌いではない。そうやって生きていく。一緒に暮らし始める時にそう決めた
暮らし始めてから、数年経つ。私たちは、まだ恋人のまま。夫婦ではない。いつまで、この関係が続くのだろう。煮え切らない、男と、女。
仕事を終えて、家に帰る。家には誰もいない。まだ、彼は帰ってきていない。彼は、帰ってくるのだろうか。ここは彼が帰ってくる場所なのだろうか。
お風呂に入り、温めたミルクを片手に、一日のニュースを見る。
騒がしい日常。それに対して、私たちの静かな生活。
うたた寝をするふりをして、彼を待つ。彼が帰ってくる。私は彼の帰りに気づくけれども、寝たふりを続ける。
彼はリビングへと入ってくる。私は寝たふりを続けた。彼は私の側に来てしばらく無言で立っていた。そして、その後、私の頭をそっと撫でた。
「こんなところで寝ている風邪ひくよ」
彼はそう言った。
私はその言葉を聞いて、起きたフリをした。
「帰って、きたんだ」
私は彼の顔を見なかった。
寝ているふりをしていた自分がなんだか馬鹿らしくなった。
「そりゃ、帰ってくるでしょ。自分の家なんだから」
自分の家。
私たちの、家。
「そうだね。そうだよね」
私は起き上がり、彼の顔を見た。この顔が好きだった。イケメンじゃないけど、完璧じゃない所が好きだった。
翌日は二人とも休みだった。午前10時過ぎに起きた。
私は、目玉焼きを作った。彼が起きてきた。
「あれ、今日は、半熟だ」
彼は驚きながら言った。今日は、彼の好みに合わせた。
私のささやかな反抗期は終わりだ。
「おいしい?」
と私は聞いた。
「うん。おいしいよ」
と彼は答えた。
「でも、完熟に慣れてしまったから、そっちの方がおいしく感じるかも。味覚って、変わっていくのかな」
そう言って彼は目玉焼きにしょうゆをかける。
私も、目玉焼にしょうゆをかける。
変わっていくのだ。私たちは半熟。
まだまだこれから変わっていくのだ。
それでいい。半熟な自分も嫌いじゃない。
「たまにはどこか行こうか?」
彼がそう言った。
私は、そうしよう、と言った。
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