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小説 天才

 天才なんだよ。あいつは。

 宮岸は、よくそう言った。あいつは天才だ。あいつは。
 あいつとは、弟の豊のことで、豊のことを宮岸は天才と呼んだ。

 幼い頃から宮岸はサッカーをやっていた。兄に憧れて弟もサッカーを始めた。才能の差にすぐに周囲が気づいた。しかし、言わなかった。言えなかった。
 宮岸本人もまた弟の才能に気づいていた。幼時にそれとなく、自己の持つ才覚の限界を見定めていた。ああ、こんなにすごい奴がいるんだ。男は静かな敗北を覚えた。

 努力が大切だ。
 宮岸は言葉を胸に奮闘した。しかし、軽やかに豊にかわされた。できないことが理解できない。豊は悩む兄を不憫に思った。
 ある日の練習、豊は手を抜いて、わざと下手にプレイした。その気遣いが兄の自尊心をいかに傷つけたのか。それは幼い豊には想像できないことだった。また、宮岸自身もそれによって自分がどれほど傷ついたのか。自身が負ったその亀裂をうまく言葉に変換することができなかった。

 宮岸はサッカーをやめた。弟はユースとして才能を存分に発揮した。宮岸は二度とボールを蹴ることはなかった。 
 あいつは、天才なんだよ。いつもこの言葉を繰り返した。
 
 豊の不調が表れたのは高校に進学してからだった。弟は天才と呼ばれた。兄は、秀才と呼ばれた。宮岸は中学に入ってから勉強だけは努力していた。難しいことは何もなかった。ただ、記憶した事実に従って点数がついてくるだけだった。

 豊は次第に学校を休むようになった。チームにも顔を見せなくなった。豊は家にいて、呆然としていた。足の痛みが引かなかった。天分が、体にかけた負担は大きかった。動けない自分に価値なんてない。突出した才能と裏腹に、心は未熟だった。

 あいつは、天才なんだよ。
 兄が、俺をそう言ってくれている。
 その事実が、豊を悩ました。自分が兄をサッカーから追いやった。
 兄はサッカーが好きだった。自分はどうか。ただ、周囲にちやほやされるままに続けただけではなかったか。
 努力はもちろんした、しかし、俺の努力は兄の足元にも及ばない。
 
 サッカーをやめた日、兄は泣いていた。
 宮岸のその姿を弟は見ていた。

 宮岸が部屋をノックした。豊は兄を迎え入れた。
 兄の手にはテープが持たれていた。テーピング用のものだ。
「なんだそれ」
 豊が言った。
「勉強したんだ」
 宮岸はそのまま弟の体をテーピングした。男は秀才だった。勉強すれば、簡単なことさ。宮岸は言った。豊はなすがままにされていた。数分後、やや不格好だけれども、しっかりしたテーピングが施された。

 きっと大丈夫さ。なんとかなる。
 宮岸はそう言った。弟は頷いた。

 しばらくして豊はチームに復帰した。
 ブランクをものともせず、天才はやはり天才だった。それを見つける宮岸がいた。弟の活躍を見守る。それは他の人にはまねできない宮岸特有の所作だった。
 
 兄は、フォローの天才なんです。
 後年、豊はそう語った。

 宮岸は、今もチームのトレーナーとして活躍している。

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