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生活の中の小説

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日々、心を通り過ぎていく一瞬の風景を切り取って、小説にしていきます。小さな物語を日々楽しんでいっていただければと思います。
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小説 彼女からの手紙

小説 彼女からの手紙

たまらなく、一人になるとむなしくなることがあるの。

彼女の手紙にはこう書かれていた。

あなたもそうじゃない? 誰かがこの世界に生きていたとしても、それが自分のためというわけではない。そう思うと余計にむなしくなる。世界の中に生きているのに、存在している意味がないような感覚。存在ってなんだろう。
あまり言葉にしようとすると、結構厳しいものがあるかもしれない。
 
所詮さ、どこいたって人は一人なんだ

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小説 井戸のある家

小説 井戸のある家

 その家には井戸があって、女がよく水をくみ上げていた。庭の端っこに古びた方円形の井戸が据えられており、女は滑車をゆっくりと引き上げて、水をくみ上げた。

 水はどこから来ているのか。村の背後に連なる山々から地下水が流れてくるのかだろうか。

 もう村に井戸は少なく、女の家を含めても数軒しかない。もちろん、村にだって水道が普及していて、井戸水を使うにしたって、もう少し便利なくみ上げ型をする方が便利だ

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小説 トルルカ半島の灯台

小説 トルルカ半島の灯台

 トルルカ半島は、ミラスコ北西部に位置する小さな半島を指す。地図上で見ると、マルユノ海に角のように飛び出していて、地元では「鹿の角」と呼ばれている。なぜ鹿なのか、それは誰も知らない。

 マユラバは、星を見ていた。
 マユラバはトルルカ半島の、ヒュカ村出身の男だ。若くて、強い村の男だ。
 昨晩から、星の光が鈍くなった。毎夜、星空を見ているマユラバだからこその気づきだった。
 空が落ちてくるのかもし

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小説 時計技師

 円城は、いつも時計を直していた。来る日も来る日も。その店には、毎日多くの客がやってきて、壊れた時計を円城に預けていった。よくもまあ、これほどまでに時計が壊れるものだ。

 俺は自分の時計を壊したことなんて一度もない。いや、壊れるほどに物事に執着したことはないのかもしれない。

 電気を時計に応用したのはイタリア人のツァンボニだという。それが定かではないが、以来様々な技術発展が時計を支えてきた。

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小説 渦

 巻き込まれた。その渦に。
 不意に襲ってきた、その激情。恋なんて、捨てたのだ。
 燃えるゴミに紛らせて。なのに。

 蟻地獄だよ。底であなたが待っている。泡沫、春の夜の夢。
 体も麻痺しちゃってさ。
 私を特区にして、他人を介さないでほしい。

 夜のポエマーかよ。指先で、温もりを探る。
 海の底で、息もできないまま、口づけを交わした。
 
 乾いた唇を、言い訳で濡らす。吸い込まれてはいけない

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小説 天才

小説 天才

 天才なんだよ。あいつは。

 宮岸は、よくそう言った。あいつは天才だ。あいつは。
 あいつとは、弟の豊のことで、豊のことを宮岸は天才と呼んだ。

 幼い頃から宮岸はサッカーをやっていた。兄に憧れて弟もサッカーを始めた。才能の差にすぐに周囲が気づいた。しかし、言わなかった。言えなかった。
 宮岸本人もまた弟の才能に気づいていた。幼時にそれとなく、自己の持つ才覚の限界を見定めていた。ああ、こんなにす

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小説 月読の詩 第2話「二人の明日」

小説 月読の詩 第2話「二人の明日」

 アヴリエは羽織った衣服を次々と脱いだ。一枚衣をはがす度に村のために背負った重責までもが抜け落ちていくような気がした。

 最後、彼女は村娘がいつも着る薄地のワンピースだけになった。村の女は大概この格好で家事を行う。日常の自分の姿だ。

 私たちの日常は遠い地平の彼方へと行ってしまった。
 アヴリエは自分の肌を見た。色白の肌は、世相の無知を思わせた。無垢と無知は、場合によっては同義である。

 不

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小説 月読の詩 第1話「祈りの祭壇」

小説 月読の詩 第1話「祈りの祭壇」

 祭壇の上に供物が置かれた。祭壇の周りには祭服に身を纏った人間が無言で立っている。コルトマは闇の中に茫洋と浮かぶ祭壇を見つめていた。

 密閉された祭儀堂の中央には大きな祭壇が据えられ、周囲には足の長い燭台がいくつも並んだ。使いが一人一人堂内へと入り、供物をささげていく。

 今朝、川で釣れた魚、畑からとれた野菜、干物、燻製。村の生活を育むあらゆる恵みが祭壇に並べられた。
 最後の供物を持ってきた

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小説 乾いた城の中で

小説 乾いた城の中で

 雨が上がって、太陽が注ぐと、山間に一つの城が見えた。山林を二日も迷った男にとって、その城は希望に見えた。助かった。男は素直にそう思った。

 尖塔が鋭く伸び、城壁が高くそびえ、その威容は周囲の森林とはまるで溶け合わず、不似合いだった。城全体を壁が囲い、何者の侵入も拒否しているように見えた。なぜ、こんなところに城があるのか。男は何も考えずに城へと向かった。物事を冷静に考える余裕はなかった。

 男

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小説 八年目の私

小説 八年目の私

 朝の鎌倉は人影まばらだった。平日であることもあるだろう。古都は静寂を湛え、小さな生活を重ねていた。少し高台に登れば、相模湾を臨むことができ、水平線の果てで空と海とが一つになる。 
 
 久ぶりにこの町に来た。あの時は二人でやってきた。お互いまだ大学生で、何も知らなかった。政治のことも、経済のことも。そして、自分が結婚するだろう人のことも。
 
 あなたが、そうだったのね。運命の人。少女漫画みたい

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小説 冷やし中華

小説 冷やし中華

 母はよく冷やし中華を作った。一年中、いつでも。母は季節感を忘れたように、冷やし中華を作った。季節を忘れてしまったかのようだった。

「好きなものを、好きなときに食べる。これが一番の幸せでしょ」
 母はそう言った。

 僕はテーブルの上に置かれた皿を見た。そこには色鮮やかな冷やし中華があった。
 冷やし中華って、なんで冷やし中華なんだろう。ふと、母に尋ねた。小学生の頃だったように思う。母はもちろん

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小説  5月のスキャット

小説  5月のスキャット

 私は、知らないのよ。本当に、そんなこと。だってそうでしょ? あの子があんなことしているなんて思いもよらなかったのよ。

 たまたま、たまたま見たの。お金を盗んで、そう。だから、私はそれを、伝えたの。知り合いの人に、ね。直接言ったわけではなくて、ただ、ふっと漏らしてしまったの。そしたら、めぐりめぐって、彼女が、やったってばれたの。

 私は、悪意があったわけではなくて、ほんとに、ぽろりと。そうな

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小説 だから僕は真夜中にコーヒーを飲む

「眠れなくなるよ」
 礼美が言った。

 僕はコーヒーを飲んでいた。時間は午後10時を回っていた。
「大丈夫。カフェインが効かない体質なんだ」

「私なんて、3時以降に飲んだらもうアウトだけどね」 
 彼女はコーヒーをあまり飲まない。飲まないのに、食事が終わるとコーヒーを入れてくれる。カップの横にはミルクが一つ置いてある。彼女は僕の好みを知っているのだ。

 夕食後に飲み、あまったコーヒーを風呂上

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小説 月明りから逃げて

小説 月明りから逃げて

 光が追いついてくる。闇夜を厳かに照らそうとする。影は、ビルの隙間に隠れた。
 肉体がほどけていく。実体が欠けていく。

 もとから実体なんてないじゃないか。影は小さく呟く。 

 俺は死んで、影になった。影でも生きていたかったのだ。世界への未練、残された、君。
 「あなたは、いつも遠くを見すぎるのよ。未来を見るのはいいと思う。大切なこと。でも、足元をもうちょっと見てもいいのかなってそう

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