小説 八年目の私
朝の鎌倉は人影まばらだった。平日であることもあるだろう。古都は静寂を湛え、小さな生活を重ねていた。少し高台に登れば、相模湾を臨むことができ、水平線の果てで空と海とが一つになる。
久ぶりにこの町に来た。あの時は二人でやってきた。お互いまだ大学生で、何も知らなかった。政治のことも、経済のことも。そして、自分が結婚するだろう人のことも。
あなたが、そうだったのね。運命の人。少女漫画みたいな台詞。手あかのついたセリフは使ってはいけない。脚本家スクールの先生はそんな風に言っていた。
でも、人が惹かれるものなんて、結局手あかのついているものなのではないか。そんな風に思っている。ジャンクフードみたいな言葉。それが、一番気兼ねなく受け取ることができる言葉。
結婚して八年経つ。八年ぶりに、最初のデートの場所に来た。
一人で家を出てきた。朝早く起きて、気づかれないように家を出て、品川駅へ行った。わずかな時間だったけれども、ずいぶん遠くまで旅をしたような気がする。
なんで出てきたのか。理由は私にもわからない。わからないから、旅に出た。
あの人は、今も寝ているかもしれない。休日は、いつも寝ている。
子どもがいれば、二人の仲も少しは変わったのかもしれない。あなたはパパで、私はママ。三角形のような関係なら、私たちは互いに生活のバランスを保つことができたのかもしれない。
頼朝の銅像を見た。睨まれているような気がした。近くで、植樹が行われていた。旧暦で言えばもう夏なのだ。額から汗がしたたり落ちる。
ちゃんとした靴を履いてくればよかった。靴擦れが痛かった。バスに乗って、高徳院で降りて大仏を見つめた。時間はもう昼を回っていて、平日だけれども多くの観光客でにぎわっていた。
八年前から変わっていない。威容を湛え、眼下の私を見つめていた。頼朝も、大仏も私を見ていた。古都が私を見ているような気がしていた。私の変化を、私の成長を。
鎌倉の市街地を抜けて、鶴岡八幡宮へと行った。長い若宮大路をとぼとぼと歩いた。小さい子ども二人がとことこと走っていた。兄弟だろうか。後ろから母親らしき女性が急いで追いかけてきて、こら、迷惑でしょ、と言って二人を叱っていた。
鶴岡八幡宮では結婚式が行われていた。和装で行われる結婚式。笙の音だろうか、湿った音が体に染み込む。女性が、参道を過ぎ、舞殿へと昇った。白無垢の装いが静かな雰囲気と相まって、とても美しく、貞淑な姿に見えた。周囲の視線が一点に注がれた。時間止まっていた。一瞬の中に、永遠が凝縮されているように思えた。
私にもあんな時もあった。海沿いのチャペルで、長いドレスを着て、ヴァージンロードを歩いた。そして、永遠を誓ったのだ。
夕闇が迫ってきた。なんだか、考えることにも疲れた。疲労と共に、雑念も抜けた。
電車に乗って、家に帰った。
珍しく、彼が料理を作っていた。
「どうしたの?」
「いや、たまには作ろうと思って」
どこに行っていたのか、彼は尋ねたかった。電車に乗っている間、私はずっと言い訳を考えていたのに。どうして、私を責めないんだよ。
「でも、おいしくなるかどうかはわからない」
不器用に彼は手を動かす。その拙さが、なんだかとても愛おしく思えた。
「私がやるよ。見てられないから」
「いいよ。僕がやるから」
黙って私は手を動かす。自分をうまく伝えられなかった。
「じゃあ、一緒にやろう」
彼はそう言った。私は小さく、そうだね、と言った。
来月は、二人の結婚記念日が来る。
九年目の私たちへ。今日も、私たちは仲良しです。
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